第86話 人生を棒に振らされる女の子
文字数 1,826文字
一生を棒に振る生き方ってどんなんだろうって思ったんだけど抽象的な事例ではなかなか説明できなくてね。
だけど具体的に、あ、あの人だ、って思えばとてもわかりやすい。
しかもそれって棒に振らされる側の人を思い浮かべるよりも棒に振らせる人の側を挙げ連ねると気持ち悪いほどにわかっちゃうよ。
「あの。お話してもいいですか?」
「えっ。うん、いいよ。その代わりわたしうつ病だけど」
「えっ。はい全然構いません。むしろそういう方とお話したかったです」
今日は言夢 のお父さんが仕事で車を使わなきゃいけない日だったからわたしはバスで病院の精神科に行く途中だったんだよね。市民病院経由のこの街を循環するバスのね、通勤通学時間を過ぎた後の午前中の静かな車内でさ、その女の子はわたしの隣に座ってくるからさ。
でも、嫌な気分じゃないんだ。
その子、とってもいい匂いがするから。
「シャムさん、ですか。わたしはキヨリ、です。中3です」
「そっか。キヨリちゃんの話したいことって?」
「はい。介護のことなんです」
「え。介護?」
「はい」
キヨリちゃんのお父さんが介護世代らしい。介護される側じゃなくて介護する側なんだって。
キヨリちゃんのお父さんのお父さん、つまりキヨリちゃんのおじいちゃんは若い頃の不摂生のせいでずうっと重たい体を揺すって生きてきたから男なのにO脚でね。しかもここへ来て膝が全く使い物にならないぐらいに痛んじゃって、杖を2本使って松葉杖のようにしないと歩けないらしい。
「なのにおじいちゃんは『健常だ』って言うんです」
「健常」
健常なんて一番軽々しく使っちゃいけない言葉さ。
この世の誰が健常さ。
「おじいちゃんは持病とかは?」
「残念なことに無いんですよ」
「残念、て…」
「でも言いたいことはわかっていただけますよね?」
「うん…分かる」
キヨリちゃんは膝の上に抱えているノース・フェイスのデイパックからスマホを取り出してわたしに写真を観せてくれた。
「サザンカ」
「はい、そうです。庭の草の上に、ピンクのサザンカの花が、散って落ちているんです」
「このサザンカ」
わたしはタップするぐらいに右の人差し指を花の茶色がかった花弁の上に近づけて、つぶやいた。
「キヨリちゃんなんだね」
「はい」
たいおんを
そしらぬ人になおざられ
落ちるサザンカ
地に泣き果てる
「意訳、してくれる?」
「はい」
信教の自由とか
主義主張の大切さとか
生活スタイルの選択権とか
そんなのわたしにとって無関係
『知らなかった』と言って神の住まう大木を切って
自分の住居を作ったクセに
そうしてその神の困苦を溶かす恩人のお陰でさ
かろうじて殺されずに済んだのに
それを忘れるわけはないから知らぬ存ぜぬで
大きな恩を無かったことにして
決断を迫られたら
『その時が来たら判断する』
と逃げおおせ
時間ぎれをもくろんで
つまりは死ぬまで意を通す
そんな老爺になりたくない
そんな老婆になりたくない
朽ちるサザンカわたしなら
泣いて地面を叩きたい
「キヨリちゃん。難儀だね」
「そういってくれるのは、シャムさんだけです」
「お父さんは?」
「父親にとって祖父は実の親ですから。介護の手間や費用負担はあっても『親孝行をなした』っていう満足は残るんでしょうから」
「キヨリちゃんがおじいちゃん孝行をしたっていう功徳は?」
「シャムさん」
彼女は冷徹なほどに、事実を告げてくれたよ。
「世に仇なす老人を延命することは、人類のためでしょうか?」
それから、もっと切ないことも告げてくれた。
「シャムさん。時々、祖父を殴りたくなります」
「…そう」
「それができない、ってわかってますから、夜中に、家に火を点けたくなります」
「キヨリちゃん」
「はい」
「もし、ほんとうに火を点けそうになったら、わたしを呼んで」
「…はい」
「夜中でも、明け方でも、わたしが便所で用を足している最中でもいい。全速力で来るから」
「うぅ…」
「全速力でキヨリちゃんの家に駆け込んで、それでキヨリちゃんの背中をさすってあげるから」
「うぅ…く…くふ…」
まだ、足りないみたいだ。
どうしてあげよう。
こうしてあげよう。
「キヨリちゃん」
「えっ」
「もし、キヨリちゃんの気がおさまるならば」
おさまるならば。
「わたしがおじいちゃんを殺してあげる」
バスが停留所に着いた。
ふたりして市民病院前で降りる。
そうしてふたりして院内のエスカレーターを並んで上って。
3階の精神科の待合ソファに並んで座った。
だけど具体的に、あ、あの人だ、って思えばとてもわかりやすい。
しかもそれって棒に振らされる側の人を思い浮かべるよりも棒に振らせる人の側を挙げ連ねると気持ち悪いほどにわかっちゃうよ。
「あの。お話してもいいですか?」
「えっ。うん、いいよ。その代わりわたしうつ病だけど」
「えっ。はい全然構いません。むしろそういう方とお話したかったです」
今日は
でも、嫌な気分じゃないんだ。
その子、とってもいい匂いがするから。
「シャムさん、ですか。わたしはキヨリ、です。中3です」
「そっか。キヨリちゃんの話したいことって?」
「はい。介護のことなんです」
「え。介護?」
「はい」
キヨリちゃんのお父さんが介護世代らしい。介護される側じゃなくて介護する側なんだって。
キヨリちゃんのお父さんのお父さん、つまりキヨリちゃんのおじいちゃんは若い頃の不摂生のせいでずうっと重たい体を揺すって生きてきたから男なのにO脚でね。しかもここへ来て膝が全く使い物にならないぐらいに痛んじゃって、杖を2本使って松葉杖のようにしないと歩けないらしい。
「なのにおじいちゃんは『健常だ』って言うんです」
「健常」
健常なんて一番軽々しく使っちゃいけない言葉さ。
この世の誰が健常さ。
「おじいちゃんは持病とかは?」
「残念なことに無いんですよ」
「残念、て…」
「でも言いたいことはわかっていただけますよね?」
「うん…分かる」
キヨリちゃんは膝の上に抱えているノース・フェイスのデイパックからスマホを取り出してわたしに写真を観せてくれた。
「サザンカ」
「はい、そうです。庭の草の上に、ピンクのサザンカの花が、散って落ちているんです」
「このサザンカ」
わたしはタップするぐらいに右の人差し指を花の茶色がかった花弁の上に近づけて、つぶやいた。
「キヨリちゃんなんだね」
「はい」
たいおんを
そしらぬ人になおざられ
落ちるサザンカ
地に泣き果てる
「意訳、してくれる?」
「はい」
信教の自由とか
主義主張の大切さとか
生活スタイルの選択権とか
そんなのわたしにとって無関係
『知らなかった』と言って神の住まう大木を切って
自分の住居を作ったクセに
そうしてその神の困苦を溶かす恩人のお陰でさ
かろうじて殺されずに済んだのに
それを忘れるわけはないから知らぬ存ぜぬで
大きな恩を無かったことにして
決断を迫られたら
『その時が来たら判断する』
と逃げおおせ
時間ぎれをもくろんで
つまりは死ぬまで意を通す
そんな老爺になりたくない
そんな老婆になりたくない
朽ちるサザンカわたしなら
泣いて地面を叩きたい
「キヨリちゃん。難儀だね」
「そういってくれるのは、シャムさんだけです」
「お父さんは?」
「父親にとって祖父は実の親ですから。介護の手間や費用負担はあっても『親孝行をなした』っていう満足は残るんでしょうから」
「キヨリちゃんがおじいちゃん孝行をしたっていう功徳は?」
「シャムさん」
彼女は冷徹なほどに、事実を告げてくれたよ。
「世に仇なす老人を延命することは、人類のためでしょうか?」
それから、もっと切ないことも告げてくれた。
「シャムさん。時々、祖父を殴りたくなります」
「…そう」
「それができない、ってわかってますから、夜中に、家に火を点けたくなります」
「キヨリちゃん」
「はい」
「もし、ほんとうに火を点けそうになったら、わたしを呼んで」
「…はい」
「夜中でも、明け方でも、わたしが便所で用を足している最中でもいい。全速力で来るから」
「うぅ…」
「全速力でキヨリちゃんの家に駆け込んで、それでキヨリちゃんの背中をさすってあげるから」
「うぅ…く…くふ…」
まだ、足りないみたいだ。
どうしてあげよう。
こうしてあげよう。
「キヨリちゃん」
「えっ」
「もし、キヨリちゃんの気がおさまるならば」
おさまるならば。
「わたしがおじいちゃんを殺してあげる」
バスが停留所に着いた。
ふたりして市民病院前で降りる。
そうしてふたりして院内のエスカレーターを並んで上って。
3階の精神科の待合ソファに並んで座った。