第52話 ザザッと水に流そうよ

文字数 2,036文字

 日曜も休みで、午前中はでも躊躇してたんだけど、午後になってそれも遅い時間になってから決断したよ。

「行く」

 わたしは誰にも告げずにアパートを出発してバスに乗った。
 そのバスは学生や勤め人が通学・通勤に使うタイプの路線じゃなくて、病院や特別養護老人ホームや買い物難民のためにバス停に『●●スーパー最果店』と名前のつけられたスーパーマーケットやらばかり回るバス。
 バス停の数は一番少ない路線だけれども完全に山の中を走るからその路線図は小腸のクネクネみたいに複雑にヘアピンカーブが連なってて時間はかなりかかる。お客は多分結局自分では持てないだろうエコバックをシートに座った状態でも肩にかけて座ってるおばあさんだけ。

 それでね、病院と特養の間あたりにね、こういうバス停があるんだよ。

『瀧』

 シンプルきわまりないけどね、そこでわたしがバスを降りた頃は、もうあと少しすると夕暮れの時間になりかけの日差しと局地的な土砂降りとが繰り返されてたんだけど、最後の民家を見届けて山の中へ入って行くんだなあ、っていう感覚になった時にはね、もうただただ唱えてたよ。

「のうまくさんまんだー ばーざらだん せんだーまーかろしゃだー そわたやうんたらたーかんまん」

 だって、怖いから

 クマの出没情報があるけどそれだけじゃなくて、山へ入ることそのものが、人間でしかないわたしの分を超えているような気がして。
 そんな気がして。

「はっ、はっ、はっ!」

 道はわたしが両手を広げる程度の幅かな。
 土砂降りの後の晴れ間だから道は固まる前のコンクリートぐらいの硬質さでぬかるみを作っててシューズのソールがちょうどラバーの厚さ分、ぬ、と泥にめり込んで白のラバーが黒茶に染まるよ。
 ほら、まるで歯科医で歯の型を取るためのあの冷やっこいにゅるにゅるに染まるみたいにさ。

 大きめのデイパックを背中の低い位置に垂らすようにしてひっかけるようにして負ってるわたしの両手は空いてて、だから掌を合わせてわたしは歩行する。

「のうまくさんまんだー ばーざらだん せんだーまーかろしゃだー そわたやうんたらたーかんまん」

 クマよりも
 イノシシよりも
 悪霊よりも

 わたしはこの山の、瀧へと続く道そのものの厳粛さに畏怖していた

「う」

 アゲハだ

 カラスアゲハ

 ぬかるみの泥の、けれども清い水の溜まったところに着地して、ほんとうに羽をゆっくりと、すうー、すうー、っていうスピードで閉じて開いている。

 不吉さのカケラもない

 かわいい

 可憐

 ああ・・・・・・・

 居てくれてありがとう

 カラスアゲハに動機付けられもしてわたしは瀧への獣道のような細い泥と葉の堆積した幅を歩行し続ける。

 もはや自動的ですらあるかも

「あぁ・・・・・・・」

 おわしたよ

 お不動さまが

 二本の水の落下が落ちる第一の瀧壺

 そうしてその更に下に一本の水の流れの落ちる第二の瀧壺

 お不動様の石のお像は、第一の瀧壺のその上の岩場におわした

 わたしは浄財を、夕べ飲んだ錠剤のごとくわたしの精神をなんとか保っていくための現し身のようなつもりで瀧壺の淵を滑って落ちないように伝って右手では届かないので左手で真っ直ぐに最短距離で最高度になるように腕を伸ばして浄財を置いたよ

 その反動で真後ろに、やっぱり落ちないようにして両足で立てるスペースを瀧壺の淵に確保して、掌をしっかりと組んでさ

「お不動さま!生霊を外して・・・!」

 そこまで言って、わたしは、あ、と気づいて、次にこう言った

 こう、2×3称したんだよ

「国家安泰・世界平和!
 国家安泰・世界平和!
 国家安泰・世界平和!」

 おそらく、生霊を外してというわたしの我欲の願いもお不動さまはお聞き届けくださったろう。

 けれどもその直後にわたしの口から自動的に叫びでた言葉は、わたしが言ったんじゃなくて

 生前遭えなかったわたしの恩人が言わせたんだろう

 わたしの精神をうつでじわりと削ぐようなことでも無い限り、わたしがこのお瀧までやって来ることは決してなかったろう

 当然、ここにお不動さまがおわすことも、永遠に知らぬままに一生を終わったことだろう

 けれども、わたしは、来た

 お呼びいただいた

「のうまくさんまんだー ばーざらだん せんだーまーかろしゃだー そわたやうんたらたーかんまん! のうまくさんまんだー ばーざらだん せんだーまーかろしゃだー そわたやうんたらたーかんまん!」

 わたしは瀧壺からあとずさるようにして、そうしてせっかくお遭いできたお不動さまと、けれどもまもなく日没の時刻と成り果てるために引き返さなくてはならないことを名残惜しみながらまた元来た泥道を歩行し始めた

「あ」

 まだ、居てくれた

 カラスアゲハはわたしを今度は先導するように飛んでくれる

 クマが出てきたとしても、このアゲハがわたしを守ってくれることだろう

 わたしにはわかる

 本来なら人間ごときのわたしにはわかるはずがないんだけれども、わかるんだ

 瀧の水に、ざっ、と流し尽くしたからさ
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