第138話 波を切る そして蜂

文字数 1,569文字

 第三十六番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺

 ご本尊の波切不動明王と愛染明王がおわし、世の荒波を鎮め、すべての苦しみを取り除いてくださるという

 そして蜂

「あぶない!シャム!」

 モヤの声にそれでもわたしは少し持ち上げた右手の甲を引かなかった

 不意な動きがかえって危険度を増す予感がしたから

 大きさから通常の昆虫でないことはほんのコンマ数秒でふたりとも理解できてでもどうすることもできなかったからただそのままどうすることもできないでいる方が危険を回避できると思った

 結果が良かったというだけで、わたしは刺されていてもおかしくなかったと思う

「シャム!大丈夫!?」
「うん」

 スズメバチはわたしの右手の甲にほぼ避ける動作もなく激突して、けれどもわたしを単なる草木の類と誤認してくれたんだろう、攻撃対象とは取らずに一瞬くらっとしただけで左の方角に飛び去ってくれた

 モヤが訊く

「どうして軍手をはめてたの」
「こんな気がしたから」

 普段わたしが仕事で遠方の山中の顧客に遭いに行くように所長から業務命令を受けた時は軍手をはめる

 必ず、白の

 正しいのかそうでないのかは知らないけれども感覚的にスズメバチが黒い色を敵と識別して攻撃するということを聞いていたので、その反対の白ならばどういう効果があるかわからないけれども白の軍手をはめているだけなんだけど

 モヤもどうしてか今に限ってはいつもネイルを魅せるために降車時ははずすタクシードライバーの白の手袋をつけたまま参拝していたから、だから特に何も言わなかった

「モヤ」
「なに」
「スズメバチって害虫なの?」
「ん…害虫かどうかはわからないけど危険な虫だよね」
「じゃあミツバチは?」
「ん…まだ危険度は低い?スズメバチと比べればだけど」
「1匹のスズメバチとミツバチの大群とでは?」
「ん…と…え…と」

 ふたりでお不動さまが弘法大師さまが遣唐船に乗って唐へ渡る際に暴風雨に遭いそのそのときお不動さまが現れて危機をお救いになった話について話し合った

「シャム。お不動さまの体が青いのは世のひとを救うために奴婢に身をやつしてまで奉仕をしようというお心なんだよね」
「うん。そう」
「お不動さまは悪逆のココロをも縄でしばりつけてその悪心を剣で断ち切るんだよね」
「そのとおりだよ」
「じゃあ、シャム。誰も捨てないんだね」
「うん」
「どんな悪逆の…たとえば戦争すら自分のわがままと私利私欲の貪欲で引き起こす人間たちであろうと、捨てずにココロを正して救おうとしてくださるんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、シャムのその『捨てること無し』っていう名前は、お不動さまのココロなの?」
「…モヤ。わたしはお不動さまのようには完全に公正宏大なおココロにはなれないよ。どうしても我心で『許せない』みたいな気持ちでやってることがほとんどだよ。でも、それをやめたいんだよね」
「じゃあ、捨てるの?」
「それもできない」
「なぜ」
「これがわたしの業だから」

 わたしは白の軍手をはずす

 両手とも

 そうして、お不動さまがそれぞれの手に縄と剣とをお持ちになるイメージトレーニングを即座にする

「わたしはわたしのココロでなく、恩人のココロで縛って斬りたい。わたしの手の届く分相応の範囲で。できるって思う?」
「うん。シャムなら」
「ううん。モヤ。あなたはもうできてる」
「えっ」
「あなたの境遇と先達ドライバーとしての精進が、既にお不動さまのココロに達してるとわたしは思う」
「シャム」
「だからお願い。どうか四国にいる間に、あなたのココロをわたしにください」

 虫や時として獣の肉すら喰らうスズメバチも

 花の蜜を吸うミツバチも

 ココロ安らかなひとも

 奸智で自分の欲と権勢のために人を嵌めて戦争すら辞さない悪逆の徒であろうとも

 恩人のココロで捨てないんだ

 だからわたしはモヤのそのココロが

 ココロがほしい
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