第117話 炎魔帳につけ漏れなし

文字数 2,295文字

 恐るべきことをわたしは知ってる

 そうしてモヤにはそれをストレートに話す

「モヤ。地獄ってあると思う?」
「もちろん。思う」

 さすがモヤ

 わたしは更に踏み込んで訊く

「モヤ。炎魔大王さまはほんとうにすべてご存知だと思う?」
「思う。わたしは知ってる」
「モヤも」
「うん。シャムも?」
「うん。じゃあ、一緒に言ってみようか」

 せえーのっせ、で言ったよ。

「「炎魔帳につけ漏れなし」」

 よきことも悪しきことも『観ておる聴いておる知っておる』と言い切ることのできる存在。

「シャム。怖くない?」
「モヤこそ。怖いでしょ」
「うん。ココロの一番底を白状すると、怖い」
「わたしも。こわいよ」

 第二十二番札所 白水山 医王院 平等寺

 ご本尊は薬師如来さまで、老いも若きも貴賤も問わず、あらゆる人の病気を平等に治癒してくださる。

 ところで、ココロが病気だっていうのはどういう意味だろうか。

 現代でココロが病気だといった場合、うつ病がかなりの割合を占めるんだろう。うつ病の最たる症状はこれに尽きるよね。

「死にたい」

 わたしが思わず声に漏らしたそのセリフをモヤは聴き漏らさなかった。

「死なないで」

 モヤをわたしに紹介してくれたのは大家さんだった。
 四国にとても若い先達ドライバーがいると。
 同年代だろうからわたしの緊張も少なくて済むだろうと、わざわざゲンムの家まで来てくれて、そうしてお餞別までいただいた。

「死なないで」

 モヤがもう一回言った。

「死にたくないよ」

 わたしの返答にモヤは驚くだろうか。

 死にたいって言った人間が、死にたくないよ、って。

 でもモヤはさすがモヤだった。

「シャム。わかるよ。最初から死にたい子なんて誰ひとりいないよ。正確に言い直してみるね。死にたいんじゃなくて、『楽しく生きたい』んだよね」
「うんそう」
「楽しく生きることがとてもとても難しいから生きていられないような気持ちになるんだよね」
「うんそう」

 わたしがこれまで重ねてきた前世前前世前々前世ゼンゼンゼンゼン世の記憶が残ってるその中でね、どの生として「死にたい」って思わない生はなかった。それは人間として生まれた娑婆の時だけじゃなくってトンビとして生まれた娑婆の時でもそうだった。

 だって、わたしは狩りをした。

 まだ産まれたばかりほどの野鼠の赤子を爪の先にひっかけて、それをくちばしでぷすりとお腹の柔らかいあたりから潰してそれから飲み込んだ。

 神様の遣いであるかもしれない白蛇を鷲掴みならぬトンビ掴みしてやっぱりつぷつぷつぷとやわらかいところから裂いて飲み込んだ。

 満腹感よりもおぞましさが優った。

「ねえモヤ」
「うん」
「むしろ人間でない生き物として生まれた時の世の方が苦悩が大きかった」
「うん」
「食まないと生きられないことを一瞬たりとも逃れることができなかった」
「シャム。でも人間の時だってそうじゃないの?人間はもっとくだらないことで人をいじめたり虐げたりおぞましい性癖で異性や同性をいたぶったりするよ」
「そうくだらないの」
「はっ」
「人間はすべからくホンキじゃないの」
「ああ…」

 モヤはわかってくれたみたい。

 今、この日本という国に限定してみれば、ホンキで生きるために食むことをせねばならず食む為に殺さねばならない人間がいるだろうか。

 豚を屠殺するのだって、目の前にあるその豚足に齧り付いていますぐ飢えを凌がないと死んでしまうからそうするわけではなく、よその別の場所にいる人間が食餌をするために殺すのであって、それを果たしてホンキと言えるだろうか。

 まだ海上を彷徨って、自らも常に板子一枚下は地獄の漁師ならばひょっとしたら切実さは増すかもしれないけど、それでも陸上の我らのために代理で殺生をしてくれているのであって、トンビやもっと小さな虫たちが更に小さな虫を食んだり虫は食わねど葉を食う虫のような切実さや直接の罪づくりの意識はないだろう。

 だからわたしは過剰な料理人は好きではない。

 料理は間違いなく人間にとっては嗜好の部分はあるけれども、恐るべき残虐行為だと思わざるをえない。

 じかに食べる野生ではなくって、切り、潰し、焼き、煮、もっと忌々しいのは『ダシを摂る』という行為だろう。

 大きな哺乳類や魚類の肉をより美味く喰うために、別の小さな生き物をグラグラグラと地獄の釜で煮え繰り返させて骨の髄まで吸い尽くす二重三重四重の悪逆行為だ。

「シャム。よくわかったよ」
「ありがとう」
「シャムがどの生を得ても死にたくなったのはやさしいから」
「ありがとう」
「楽しく生きたいって願ったのは、他の生き物たちも楽しくさせてあげたいと思ったから」
「ありがとう」
「シャムはこの世で一番優しい女の子」
「ありがとう」
「シャム」
「うん」
「ぎゅっ、てして」

 逆かな、って思ったよ。

 この状況ならわたしをモヤが抱きしめたいのかとおもったけど、でもわかるよ。

「よろこんで」

 背の低いわたしは長身の上にヒールで嵩上げされたモヤのとても細い腰を、わたしの力の限りの筋力を使って、そうして背が低いことに応じた細さの腕だから面積も小さいので力が狭い点に集中して。

 ぎゅっと

 ぎゅうっと

 殺してしまうんじゃないか、って思うぐらいにぎゅーっ、ってしてあげた。

「ああ…」

 モヤの漏らすため息がモヤの泣きそうな顔とシンクロして、わたしはどうしてもそうしたかったからそうしたんだけど、デッキシューズのキャンバス生地に永遠にシワがつくんじゃないかと思うほどのつま先立ちで、モヤの露出した鎖骨に鼻を、くすん、て埋ずめた。

 そうして告げてあげた。

「他の生類にも劣る人類のホンキじゃない殺生の最たるものは戦争」
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