第78話 美術館へ行こうよ

文字数 2,029文字

 うつ病のお見舞いなんてあまり聞かないけどみんな来てくれて感無量だよね。

捨無(シャム)ちゃん。お疲れ様」
「えっ」

 観点(カンテン)さんの声がけにわたしはちょっとだけびっくりする。
 だって、わたし、何もしてないのに。

「ううん、シャムちゃん。ここに来るまでの道のりにお疲れ様って言ったんだよ」
「あ…病気になるまでの経緯ってことですね…」

 わたしが納得してるとさらにカンテンさんは付け加えてくれた。

「病気になって、こうして景色を眺めたり音楽を聴いたりしてることも含めてるよ」
「でも…それって好きなことだし働いてないですし」
「シャムちゃん」
「はい」
「草も木も花も、それからクラシックもシャンソンもポップソングももちろんロックも小説も漫画も…全部ぜんぶとても大切なもの」
「はい」
「なくてはならないもの。触れなくてはならないもの。ううん、触れずにはいられないもの。シャムちゃん、人間の本能ってね、五欲よりもそっちの方が深いと思う」
「えっ」
「花やメロディや詩や絵が無かったら、人間なんて殺し合って全員死んでしまうと思う」

 すごいな。

 カンテンさんってすごいな。

「シャムサン、アイタカッタデス」
「うん。超乃(チョウノ)ちゃん、来てくれてありがとう」

 チョウノちゃんは鉢植えの花を持ってきてくれた。

「ゲンムサンノオウチノマワリニタクサンアルカモシレマセンケド」

 カレンコアだ。

「きれい」
「ヨカッタデス」

 チョウノちゃんの笑顔みたいにかわいらしい花だよね、カレンコアって。

「シャム、で、今日行きたい所…」
言夢(ゲンム)、ちょっと待って」

 手話がかなり上達したわたしはゲンムとのやりとりはかなり自然にできるようになった。ただ、『同時通訳』をやりながらとなると少し集中しなくてはならない。

「さ、いいよ」

 わたしは観えざるのカンテンさんのためにゲンムの手話をわたし自身が声に出して同時通訳する。

「「シャム、今日行きたい所はどこだって?」」
「美術館」

 ゲンムのお父さんから借りたワゴンでわたしが運転し移動する車中でカンテンさんが面白い指摘をした。

「シャムちゃんの同時通訳ってゲンムちゃんとの二人羽織みたいね」
「カンテンさん、誰がシャムなんかと」

 わたしは運転中で脇見をするわけにいかないのでゲンムの手話をチョウノちゃんが通訳する。

「カンテンサン、ダレガシャムサンナンカト」
「おーい、チョウノちゃん。わたしシャムに『さん』なんかつけてないぞー」

 祝日だし文化の日なのに県と市が折半して建てた美術館はとても空いてた。多分企画展の画家がマイナーなせいなんだろう。

「「刈裂悦老?芸名か?」」
「ゲンム、画家は芸名なんて言わないでしょ」

 けれどもその刈裂悦老なるまだ存命中の日本画家の名前は絵を描く際の筆名のようなものらしかった。

「筆名というよりは法名に近いものらしいわ。ほら、いわゆる本当の意味での職業画家らしいから」
「カンテンさん。ほんとうの意味での職業画家、ってどういう意味ですか?」
「シャムちゃん、今の画家ってたとえば日展なりコンクールなりに出展するために描くひとが多いでしょう」
「はい。そんなイメージがありますね」
「それで入賞して評価されたらその後描く絵が高い値で取引される。でも刈裂さんの絵はね、神社やお寺や一般の人たちから神画・仏画として依頼されて描くものがほとんどなのよ。コンクールにも出ない誰の目にも触れることのない絵なのよ」
「「金のために描くってことか」」
「ううん、ゲンムちゃん、それは違うわ。むしろコンクールを足掛かりにする画家の方が金目当てでしょう。この刈裂さんはね、依頼を受けた神画や仏画を描くためには心身を不浄にはできないって言ってね、まるで昔の修験者のように日本中の険しい山野を歩いて回って空や海や山や川や草木や花を描いているのよ。旅の絵師、ね」
「「シャムみたいだな」」

 ゲンムの通訳をするためにわたし自身が声に出してみて…ああ、って得心した。

 そういうことなんだ。

 わたしもそうあれたらなあ

 そういう風に生きられたらなあ

「「観てみろよ。すげえな」」

 ゲンムがそう言って指さしたのは、石仏の絵のようだった。

 鮮やかな顔料を使って掛け軸に描かれたその石仏の前に立って、そもそもの疑問一切を吹き飛ばすようにカンテンさんが言った。

「熱いわ、炎が」

 えっ

「カ、カンテンさん!」
「なあに、シャムちゃん」
「み、観えるんですか…!?」

 わたしたちが今前に立っている掛け軸に描かれているのは野にある不動明王の像のようだ。

 像そのものはまるで印象派のモネのような淡いグレーを使った繊細で緻密な風景に溶け込む石の質感で描かれているのだけれども、その背に負う炎は

 炎は、刈裂の手によって極限までデフォルメされたのであろう赤々とした顔料で鮮明に描かれた、そういう炎だった。

 驚きを見せることをよしとしないゲンムまで驚愕していることがわかった。

 カンテンさんは炎の激しさとは対照的に鎮かに言った。

「炎は熱さえ感じられれば事足りるわ」


 
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