第277話 きょうかいなきよ
文字数 1,491文字
きょうかい という言葉にあまりいいイメージを持たない世になってきているように思う
教会
境界
教会というのは教える会場という意味か教える会そのものをいうのか
どちらでもいい
境界とは神域とそうでない場所を区切る結界のような意味だけれども一般的には神域に悪しきものが侵入できないようにするという目的だろうけれども
ほんとうにそうだろうか
「自分が神のように振る舞いたいひとにとってホンモノの神さまは邪魔者」
あるいは
「自分が実行力を持ちたいひとはココロの中ではニタリニタリとしながら勇ましいフリをして口先だけで‘神さま神さま’と称える」
これがほんとうのところだろうと思うんだ
じゃあどうするかというと前者は神さまを扉の向こうに押し込めて戸締りを厳重にする
後者は自分で自分に都合のいい神さまや神社を建立して虎の威を借る狐のように振る舞う
どちらも世を盗む大泥棒だよね
ほんとうの悪は甘い言葉でひとを誘う
‘逃げ続けるんだ’
‘寝てしまえばいいんだ’
‘体さえ鍛えれば解決するんだ’
間違ってはいないけれども前提を完全に無視してる
‘神さまに従ったうえで’ っていう
神さまに従うにあたってそこには‘義務’っていうものが常についてまわる
好き勝手すればいいというもんじゃないよ
義務と聴いただけで毛嫌いするかもしれないけどそれは決して無理な義務じゃない
神さまの息吹と合致すればはっきりとお陰を感じられる規則であって
たとえば
呼吸
呼吸だってほんとうは神様の息と合った法則のようなもの
神さまの息にあわせずに好き勝手したいひとたちがそれを乱していると思う
もちろんまだまだわたしはシャムとシャムの恩人から流し込まれたその過去世の範囲でしか理解していなくて取り違いをしているかもしれない
だからわたしの言葉を疑うことなく信じ込むのでなくて 聴いているひとたち自身にこれは天地の法則にかなっているのかどうかを吟味してほしいんだ
でもよく考えてみたら
吟味するにあたってそのよるべとなるものがなかったら吟味のしようがないっていうことがほんとうに観に沁みて感じられる
わたしにはシャムというよるべとなるような過去世があってシャムには恩人の歌があってさらにはその恩人の歌を実践して生きてきて掴めることがあって
ココロと言葉と行いの実践という土台があって初めて吟味できる
それらが全くなくて自分の守護霊に訊くひとがいる
その守護霊が‘聴きとうない!’と言うからそれは間違っているのだという人がいる
我が身内がかわいいだけの守護霊ならば‘まこと’は耳障りがよくなくて 自分を悔い改めることもいやだから‘聴きとうない!’と拒否するのは当然だろう
でも仮に
今はココロはよくないけれども‘まこと’を聴いた瞬間に‘成程なあ’と即座にさとって改心する守護霊ならば
‘まことをもっと聴かせてくれい’と身を乗り出して催促なさるはずだよ
いずれにしてもわたしたちには‘我こそは’という我や慢心や取違いが次から次へと湧いて出てくるから素直にほんとうのこと まこと に従うことを自分から得心しないとホンモノでないからだから‘ならば自分でやってみなされ’と見放されてしまうかもしれない
見放したくないんだよ
捨てたくないんだよ
抱き参らせてそうしてなんとかして善き方へと向いてほしい
‘それみたことか’ なんてことを後で言いたくないんだよ
境界を作り神さまを自分たちの都合のよいように押し込めるのでなくって
境界を取り払い わたしたちの人間があくせくと住まうエリアをも神さまの広大無辺のお慈悲で照らしてもらわなきゃ
嘘でしょ
教会
境界
教会というのは教える会場という意味か教える会そのものをいうのか
どちらでもいい
境界とは神域とそうでない場所を区切る結界のような意味だけれども一般的には神域に悪しきものが侵入できないようにするという目的だろうけれども
ほんとうにそうだろうか
「自分が神のように振る舞いたいひとにとってホンモノの神さまは邪魔者」
あるいは
「自分が実行力を持ちたいひとはココロの中ではニタリニタリとしながら勇ましいフリをして口先だけで‘神さま神さま’と称える」
これがほんとうのところだろうと思うんだ
じゃあどうするかというと前者は神さまを扉の向こうに押し込めて戸締りを厳重にする
後者は自分で自分に都合のいい神さまや神社を建立して虎の威を借る狐のように振る舞う
どちらも世を盗む大泥棒だよね
ほんとうの悪は甘い言葉でひとを誘う
‘逃げ続けるんだ’
‘寝てしまえばいいんだ’
‘体さえ鍛えれば解決するんだ’
間違ってはいないけれども前提を完全に無視してる
‘神さまに従ったうえで’ っていう
神さまに従うにあたってそこには‘義務’っていうものが常についてまわる
好き勝手すればいいというもんじゃないよ
義務と聴いただけで毛嫌いするかもしれないけどそれは決して無理な義務じゃない
神さまの息吹と合致すればはっきりとお陰を感じられる規則であって
たとえば
呼吸
呼吸だってほんとうは神様の息と合った法則のようなもの
神さまの息にあわせずに好き勝手したいひとたちがそれを乱していると思う
もちろんまだまだわたしはシャムとシャムの恩人から流し込まれたその過去世の範囲でしか理解していなくて取り違いをしているかもしれない
だからわたしの言葉を疑うことなく信じ込むのでなくて 聴いているひとたち自身にこれは天地の法則にかなっているのかどうかを吟味してほしいんだ
でもよく考えてみたら
吟味するにあたってそのよるべとなるものがなかったら吟味のしようがないっていうことがほんとうに観に沁みて感じられる
わたしにはシャムというよるべとなるような過去世があってシャムには恩人の歌があってさらにはその恩人の歌を実践して生きてきて掴めることがあって
ココロと言葉と行いの実践という土台があって初めて吟味できる
それらが全くなくて自分の守護霊に訊くひとがいる
その守護霊が‘聴きとうない!’と言うからそれは間違っているのだという人がいる
我が身内がかわいいだけの守護霊ならば‘まこと’は耳障りがよくなくて 自分を悔い改めることもいやだから‘聴きとうない!’と拒否するのは当然だろう
でも仮に
今はココロはよくないけれども‘まこと’を聴いた瞬間に‘成程なあ’と即座にさとって改心する守護霊ならば
‘まことをもっと聴かせてくれい’と身を乗り出して催促なさるはずだよ
いずれにしてもわたしたちには‘我こそは’という我や慢心や取違いが次から次へと湧いて出てくるから素直にほんとうのこと まこと に従うことを自分から得心しないとホンモノでないからだから‘ならば自分でやってみなされ’と見放されてしまうかもしれない
見放したくないんだよ
捨てたくないんだよ
抱き参らせてそうしてなんとかして善き方へと向いてほしい
‘それみたことか’ なんてことを後で言いたくないんだよ
境界を作り神さまを自分たちの都合のよいように押し込めるのでなくって
境界を取り払い わたしたちの人間があくせくと住まうエリアをも神さまの広大無辺のお慈悲で照らしてもらわなきゃ
嘘でしょ