第90話 猫を猫かわいがりしないでね

文字数 1,158文字

「あっ!」

 こういう感覚ってわかるかな。
 ほら、海外からの留学生がさ、体育のバレーの授業の時にスパイクを打ったらスナップを変な風にきかせちゃって手首をひねってさ、その時にさ、『痛っ!』ていう感覚。

 日本語で。

 言夢(ゲンム)のネイティブ言語はまあ手話ってことになるんだけど、けどゲンムのその『あっ!』っていう顔はさ、言語障害でろれつが回らないゲンムだけどはっきりとそう叫んだように聴こえたんだ。

 でもそいつには聞こえなかったみたいでさ。

 あ。
 あのね。

 わたしって本来人を『あいつ』とか『そいつ』とかって呼ばないんだけどそいつのことはそいつって呼ぶよ?

 だってゲンムの敵だから。

「こいつ、小学校時代まだわたしがなんとか『声』でみんなと会話しようとしてた時、『おひょ、おひょ』ってわたしの喋るのをゲラゲラ笑って真似してバカにしたヤツなんだ」

 敵だ。

「だからわたしはそれを境に二度と声を出して喋らないって決めたんだ。こいつのせいなんだ」

 敵だ。

「こいつのせいでわたしは喋る訓練をやめたんだ!」

 嘘みたいだ。

 ゲンムが泣いてる。

 ボロボロボロボロ

 ぐしゃぐしゃぐしゃぐしゃ

 だからわたしはそいつの前に無言で歩いて行って、取り上げた。

 猫を

「…彼女が浮気したんだ」
「だから猫を?」
「悪いかよ」

 そいつは細い月の少ない灯りの下、自分の家の前の門の段差に腰掛けて太ももの上に猫を置いて撫でてたんだ。
 多分、半ノラ半飼い状態なんだろう。

「返せよ」
「これはあんたの猫じゃない」
「俺がエサやってんだよ。俺の猫だよ。ていうかオマエ誰なんだよ」
「ゲンムの友達だよ」
「ああ、おひょおひょ言ってたそいつのか」

 ゲンムが後ろを向いた。
 そいつに泣き顔見せるのが悔しいんだろう。

「俺の猫だ。返せよ」
「どうしてもあんたの猫だって言うの」
「ああ。返せよ」

 わたしはさ

 わるいとは思ったけどさ

 放り投げたよ

 猫を

 目の前の用水に

「な、なにすんだ!」
「あんたの猫だから投げた」
「お!おい!流れてっちまうぞ!」
「助ければ?」

 用水は浅くて流れはゆるくて

 だからそいつはスニーカーを履いたまま、とぷ、って入ってすぐに猫のところまで追いついて猫を抱き抱えようとした

「おひゃあ!」
 
 そいつは猫に噛まれたよ

 だって、猫は利口だからさ、さっきからのこと全部わかってんだよ

「ねえあんた、今、なんて言った?」
「えっ!?な、なんだって!?」
「噛んで」

 わたしが頼むと猫はもう一回噛んでくれた

 そいつの右手の甲を、骨ごと

「おひょっ!おひょっ!」

 わたしは絶対に笑わないようにして言ってやったよ。

「日本語知らないの?『痛っ!痛っ!』でしょ?」
「おひょぉ!おひょぉ!」

 泣いてるよ。

 わたしとゲンムは、絶対に笑わないようにして、真顔でそいつの苦しんでる様子を眺めた。

 猫は噛み続けてる。
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