第63話 書かないと死んでしまう

文字数 2,922文字

 真夏のお日さまが中空のちょうど一番高い所にある正午あたりの時刻の日差しで、カフェの遮光シェドが下ろされた大きな一枚ガラスの窓を背に逆光に映えている恋人同士とか、幹線道路の陸橋をかなりのスピードで走る車のフロントグラスの反射光とか、その向こうに大きな背景として盛り上がっている入道雲とか。

 そんなオープンな世界にわたしは居るというのに、頭のね、頭部とその先にある脳の隙間とにね、厚さは分からないけど何ミクロンかの皮膜があるような感覚がずうっと続いてる。
 その感覚は『死にたい』っていう希死念慮と呼ばれる思考を麻痺させるための薬の効力のような気もするし、反対に希死念慮の源泉そのものになってるような気もする。

 ほら、風邪薬を嚥下しようとして一回目はうまく喉を流れなくてその後姿勢を正して真っ直ぐに水で流したら食道から胃へと通過していったけど、最初に引っかかったその感覚がずっと残ったままでまだ薬そのものも喉に引っかかったままなんじゃないかっていう疑心暗鬼から気になって気になってきになって仕方なくて・・・・・・そういうのの脳の皮膜バージョンでその気掛かりが原因で死にたくなってしまうっていう。

 わたしの勝手な感覚でしかないけどね。

 わたしはね、一般の人の寿命・・・・ノーベル賞受賞学者さんたちのドーピングによる延命技術研究の賜物の寿命じゃないよ、天寿っていう本来の意味の寿命のことを言ってるんだけどその寿命で言うところの青春時代・・・・・そうだねえ、一般の人に換算したら20歳前後の頃に本を、特に小説を読みまくったんだよね。

 わたしが惹かれたのは私小説の類でね、別にそれは文豪のものでもいいし、若き天才と呼ばれる作家のものでもいいし、神経症だろうが資産家だろうが美麗だろうが醜悪だろうが作家自身がドラマティックな人生を送っていようがプロットの空想の激しさに比して凡庸な暮らしを送っていようが、どんな作家のものでも別によかった。

 ただ一点、自分を切り売りする程のホンキかどうかだけが大切だった。

 ごく稀にエッセイ書きのひとで、小説と違ってエッセイは自分を曝け出す覚悟を持って書いているのだ、っていう風に語るひとがいるけれども、わたしはそうは思わないな。

 だって、自己投影していない小説なんてあり得ないから。

 それはエッセイの特権じゃない。

 仮にね

 仮にわたしが今こうして炎天下を歩きながらモノローグみたいにして脳内の、特に皮膜の感覚のある部位周辺の脳の活動によって妄想のように文字列として脳内に描き出してるこの描写が小説の一節だったとしたら、みんなどう感じるかな。

 わたしがまさしく今生きてる、っていう感覚を持ってくれるんじゃないかな?

 わたしが一般的な人間の年齢換算でいうところの20歳前後に読んだ小説の中にはヒロインやヒーローがエンディングで自死したり自死に至らなくても社会的な抹殺を暗示するような終わり方をしたりっていう小説もかなりあって、そもそも小説を書こうなんていう人は多かれ少なかれ希死念慮があるんじゃないだろうかっていう疑念がずっと消えなかったな。

 もちろんハッピーエンドの小説もいくつも読んだけど、文庫本一冊の中のどこかしこかに死を思わせるような描写がかなりあったと思う。

 創作上の演出を意図して書いている、と割り切るにしては無理があるような描写がほとんどだった。そうして、その部分こそがどんな幸福感に溢れたファンタジーだったとしても、作者の自己投影が否応なく滲み出てた部分だと思う。

 わたしはWEB上でワナビが書いたエッセイを読む機会があってね。それはもうそのワナビ自身の喫緊の私生活の安全を確保するために今は非公開にされてるんだけど、その中にはこういう一文が出てきた。

『書かないと死んでしまう』

 最初はどういう意味か分からなかったけど今にして思うとそのまんまの意味だったんだよね。

 書かないとそのワナビはほんとうに死んでしまうんだ。

 精神療法の一種にそういうものがあるのかどうか分からないけど、「キーボードで小説を叩き込む」ことがダウンした精神の症状緩和に有効だってもし言われたら今のわたしなら納得するだろう。

 だって、今わたしが真夏の炎天下で歩行しながらこういうモノローグを呟いていることって、まさしくわたしが脳内で小説を書いていることと同じだと思わない?

 脳内で小説を書きながら、下を覗き込んでしまったら一瞬は落ちたくなってしまう大橋の上をとりあえずは生きて通過する。

 そうして脳内で書いている小説の主人公を・・・・・・そうだね・・・・・わたしの知っている子の中では一番可憐で絵になるだろう超乃(チョウノ)ちゃんがヒロインっていう設定にしてみる。

 そうして彼女にこういうセリフを語らせた。

「シニタイワケナイジャナイデスカ。デモ、イキテイルノガツラクテツラクテタマラナインデス」

 このセリフ通りに、ほんとうにいたんだよ。

 チョウノちゃんが。

「チョウノちゃん」

 わたしが掛ける声は、大橋の半月に突き出た欄干の部分に立つ横顔の彼女の耳には届かない。

 でも、わたしは風上でチョウノちゃんは風下に立っている。

 きっとわたしの部屋の花瓶にあった名も知らない紫の一輪挿しの香が麻の白いワンピースに浸透していて、彼女の鼻腔に届いたんだ。

『シャムサン』

 聴覚障碍の彼女がいつものように訓練した発音方法で声を出すんじゃなくって、眼だけでわたしの名前を呼んだよ。

 どうしよう

 どうしてあげればいいんだろう

 わたしのどうにもならないココロのままで、それでも彼女を救えるのか

 わたしはね、駆けたよ。
 だって、チョウノちゃんは欄干の半月の部分で手すりに乗せた腕を、ぴん、って突っ張って、上半身と彼女の意識がその真下の河原の石の上に行ってしまってるんだもん。

 駆けて駆けて

 汗が出て、彼女に汗の匂いを晒すのが怖かったけどそれでも駆けて

 そのまま真横から彼女を抱きしめた

「アゥ、エゥ、ウ・ウ・ウ・ウ・ゥ・ゥ・ゥ・・・・・・」

 それはチョウノちゃんの訓練された声じゃなくて、本音なんだろうと思う。
 言語としてはわたしは理解できないけど、彼女のココロの、皮膜をとった、爪先でほんの少し触れただけで激痛を感じるだろう剥き出しのココロを見せてくれたって思ったんだ。

「チョウノちゃん」

 わたしは一方的に声を掛ける

「チョウノちゃん・・・チョウノちゃん・・・チョウノちゃん・・・・・・・」

 その度に抱きしめるわたしの腕の筋肉を、彫像のように硬くきつくしていく。彼女の身体も白い滑らかな陶器の像のように硬くなっていく。

 呼びかけと抱擁だけではチョウノちゃんの希死念慮を溶かすのにまだまだ十分じゃないってわたしは思ったから、彼女のね。

 彼女の右頬に、くちづけた。

 こういうものでもそう呼んで差し支えないのならば、これが彼女のファーストキスであってほしい。

 くちづけて、わたしはそれでも彼女をなんとか救いたい、慈しみたいっていう気持ちが抑えられなくて、唇の隙間から、ツッ、って舌先ほんの一点を彼女の頬につけてみた。

 ほんのり(から)い塩の味が、わたしの脳の皮膜も溶かしてくれるみたいな気がした。
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