第144話 バッキン・バッ
文字数 1,966文字
話は少し遡るけれども
高知から愛媛に移動する直前、高知最後の二カ寺
第三十八番札所 蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺
第三十九番札所 赤亀山 寺山院 延光寺
参拝を終えた後、珍しくふたりでファミレスに入ってだべった
「シャム。人間と虫とどっちが偉いと思う?」
きたよ
モヤの鋭い問題提起が
「わたしはいつも言ってるみたいに人間も虫もどっちも輪廻の中の同類だから、どっちが偉いとかないと思う」
「ううん、シャム。虫だよ」
モヤは虫の方が偉いのだと断言する
「どうして?どうして霊長類とか偉そうに呼ばれる人間よりも虫の方が偉いと思うの」
わたしがモヤに対して躊躇も隠しもない質問を返すと、ファミレスの制服を着た多分高校生アルバイトの女の子が、がた、と下げにきた食器のバランスを崩して『失礼しました』と言って何回か遠慮がちにわたしとモヤを振り返りながらバックヤードに消えていった
躊躇する必要がない
遠慮会釈無しでいい
本音を語るどころか、すべてほんとうのことを語ればいい
わたしにとってゲンムももちろん遠慮も何もなく過ごせる相手だけど、それでもどこかで『本音』のレベルで抑えて『ほんとうのこと』を全開でしゃべれるところまでは行ってなかった
それにはわたしが『手話』というわたしのネイティブ言語ではないコミュニケーション・ツールを使わざるを得ずわたしの表現や『語彙』の拙さもあっただろう
けれどもそういうことを抜きにしても、モヤには完全に全部を話せる
話したら相手の人格が崩壊するかもしれないことでも話せる
ううん、違った
話さなくてはならないんだ
「ねえモヤ。どうして虫の方が偉いの?」
「シャム。答えの前に別の質問をするけどいい?」
「うん」
「娑婆で最大の功徳ってなんだと思う?」
「…慈悲?」
「抽象的すぎる」
「じゃあ、他人に譲ること?」
「惜しい」
「自己犠牲?」
「それじゃ言葉を変えただけ。シャム。ほんとうのほんとうのほんとうにわたしに遠慮することないんだからね?シャムはほんとうは知ってるはず。その答えがわたしの思惑と違ってシャムの答えがわたしの想像を超えるほどの鋭くて一歩間違えば気狂いのレベルの答えだったとしても一向にかまわないからね。もしそれでわたしが精神に異常をきたしたとしても本望だからね」
「モヤ…」
「さあ、言って」
「…食われること」
「やっぱりシャムだ」
虫はさまざまな生き物に食べられるだろう
過去世において、牛若丸が命を賭すことが日常となった修行を行った鞍馬山にわたしが奥の院の魔王殿を目指して登ったとき、その手前におわす不動明王さまのお堂にココロで五体投地をして心服し奉ったとき、カエルの鳴き声がそのおそばにある池から聴こえてきた
それもお山の下界の田んぼにいるようなかわいらしい鳴き声ではなくて、澄んではいるけれども低音で、姿は見えぬが明らかに普通の女子ならば嫌悪感を抱くような鳴き声がした
それも、複数
もっと言えば、無数の
「そのカエルたちはきっと夥しい数のコオロギやらバッタやらを食べると思う」
「シャム、そのとおり」
「相手が誰であれ、魂ごと肉体の塊ごと『食われる』という功徳は極めて大きいものだとおもう」
「そうだよ、シャム。だからお釈迦さまは仏が鬼となって現れたその鬼の餌食として口に飛び込むのと引き換えに悟りの言葉を教わらんとしてほんとうに飛び込んだんだから」
「ああ、モヤ。虫は、偉い」
「うん」
「モヤの言う通り、人間よりもはるかに偉い」
「うん。人間は食われることがない。よほど食人の、映画に出てくるような異常犯罪者なんかでない限り」
「モヤ。飢饉の時は」
「ああそうだね、シャム。飢饉の時は人肉を食らったんだよね、人間も。でも日常・恒常的にカエルやら鳥やらに呑まれついばまれる虫の方が、人間より断然偉いよ」
「モヤ。じゃあその偉い虫を食べた鳥やら魚やらを食べてるわたしたちはなんなんだろうね」
「シャム。人間として生まれた意味や理由を理解せずに肉やら魚やら野菜やら果物やら、時には佃煮なんかで直接虫も食っていたら情けなくて何も為さずに死んでいくのと同じだよ」
「わたしが言ってもいい?」
「もちろん」
「人間として生まれた意味は、法を聴くこと」
「そうだね」
「そうして人間として生きる理由は法を弘めること。弘法すること」
「正解!」
「だから、弘法大師さまと同行ふたりなんだよね」
「もー、シャム」
「なに」
「わたし、シャムと一緒にお遍路できてしあわせだよっ!」
人間よりも虫の方が偉い功徳を積んでいる
そうだとしたら
人間は戦争なんかやってる場合じゃない
少なくとも戦争を自ら好んで私腹を肥やしたり自らが神の如く他者を平伏させたい一心で戦争を起こした人間たちは
来世で虫に生まれ、代わりに食われ続けていた虫たちは人間に生まれ変わり取って変わるだろうね
高知から愛媛に移動する直前、高知最後の二カ寺
第三十八番札所 蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺
第三十九番札所 赤亀山 寺山院 延光寺
参拝を終えた後、珍しくふたりでファミレスに入ってだべった
「シャム。人間と虫とどっちが偉いと思う?」
きたよ
モヤの鋭い問題提起が
「わたしはいつも言ってるみたいに人間も虫もどっちも輪廻の中の同類だから、どっちが偉いとかないと思う」
「ううん、シャム。虫だよ」
モヤは虫の方が偉いのだと断言する
「どうして?どうして霊長類とか偉そうに呼ばれる人間よりも虫の方が偉いと思うの」
わたしがモヤに対して躊躇も隠しもない質問を返すと、ファミレスの制服を着た多分高校生アルバイトの女の子が、がた、と下げにきた食器のバランスを崩して『失礼しました』と言って何回か遠慮がちにわたしとモヤを振り返りながらバックヤードに消えていった
躊躇する必要がない
遠慮会釈無しでいい
本音を語るどころか、すべてほんとうのことを語ればいい
わたしにとってゲンムももちろん遠慮も何もなく過ごせる相手だけど、それでもどこかで『本音』のレベルで抑えて『ほんとうのこと』を全開でしゃべれるところまでは行ってなかった
それにはわたしが『手話』というわたしのネイティブ言語ではないコミュニケーション・ツールを使わざるを得ずわたしの表現や『語彙』の拙さもあっただろう
けれどもそういうことを抜きにしても、モヤには完全に全部を話せる
話したら相手の人格が崩壊するかもしれないことでも話せる
ううん、違った
話さなくてはならないんだ
「ねえモヤ。どうして虫の方が偉いの?」
「シャム。答えの前に別の質問をするけどいい?」
「うん」
「娑婆で最大の功徳ってなんだと思う?」
「…慈悲?」
「抽象的すぎる」
「じゃあ、他人に譲ること?」
「惜しい」
「自己犠牲?」
「それじゃ言葉を変えただけ。シャム。ほんとうのほんとうのほんとうにわたしに遠慮することないんだからね?シャムはほんとうは知ってるはず。その答えがわたしの思惑と違ってシャムの答えがわたしの想像を超えるほどの鋭くて一歩間違えば気狂いのレベルの答えだったとしても一向にかまわないからね。もしそれでわたしが精神に異常をきたしたとしても本望だからね」
「モヤ…」
「さあ、言って」
「…食われること」
「やっぱりシャムだ」
虫はさまざまな生き物に食べられるだろう
過去世において、牛若丸が命を賭すことが日常となった修行を行った鞍馬山にわたしが奥の院の魔王殿を目指して登ったとき、その手前におわす不動明王さまのお堂にココロで五体投地をして心服し奉ったとき、カエルの鳴き声がそのおそばにある池から聴こえてきた
それもお山の下界の田んぼにいるようなかわいらしい鳴き声ではなくて、澄んではいるけれども低音で、姿は見えぬが明らかに普通の女子ならば嫌悪感を抱くような鳴き声がした
それも、複数
もっと言えば、無数の
「そのカエルたちはきっと夥しい数のコオロギやらバッタやらを食べると思う」
「シャム、そのとおり」
「相手が誰であれ、魂ごと肉体の塊ごと『食われる』という功徳は極めて大きいものだとおもう」
「そうだよ、シャム。だからお釈迦さまは仏が鬼となって現れたその鬼の餌食として口に飛び込むのと引き換えに悟りの言葉を教わらんとしてほんとうに飛び込んだんだから」
「ああ、モヤ。虫は、偉い」
「うん」
「モヤの言う通り、人間よりもはるかに偉い」
「うん。人間は食われることがない。よほど食人の、映画に出てくるような異常犯罪者なんかでない限り」
「モヤ。飢饉の時は」
「ああそうだね、シャム。飢饉の時は人肉を食らったんだよね、人間も。でも日常・恒常的にカエルやら鳥やらに呑まれついばまれる虫の方が、人間より断然偉いよ」
「モヤ。じゃあその偉い虫を食べた鳥やら魚やらを食べてるわたしたちはなんなんだろうね」
「シャム。人間として生まれた意味や理由を理解せずに肉やら魚やら野菜やら果物やら、時には佃煮なんかで直接虫も食っていたら情けなくて何も為さずに死んでいくのと同じだよ」
「わたしが言ってもいい?」
「もちろん」
「人間として生まれた意味は、法を聴くこと」
「そうだね」
「そうして人間として生きる理由は法を弘めること。弘法すること」
「正解!」
「だから、弘法大師さまと同行ふたりなんだよね」
「もー、シャム」
「なに」
「わたし、シャムと一緒にお遍路できてしあわせだよっ!」
人間よりも虫の方が偉い功徳を積んでいる
そうだとしたら
人間は戦争なんかやってる場合じゃない
少なくとも戦争を自ら好んで私腹を肥やしたり自らが神の如く他者を平伏させたい一心で戦争を起こした人間たちは
来世で虫に生まれ、代わりに食われ続けていた虫たちは人間に生まれ変わり取って変わるだろうね