第79話 痛いシャムとイタいゲンム

文字数 2,584文字

 よく匂いが記憶をたぐる上で有効な手段だっていう話を聞くけどわたしにしたらもっと有効な手段がある。

 痛みだよ。

 それも古傷が痛んで事故の記憶をたどるとか傷心で失恋を思い出すとかそういう曖昧なものじゃなくて具体的に体のどの部分と脳の神経とがつながってどういう種類の痛みだったかについて二度目の体験をするようなそういうものなんだよね。

 それをわたしは休日にやった。

 ううん、うつ病により休職しているわたしに休日もなにもないだろうけど、それでも土曜日だとか日曜日はこんな身のわたしとてもやっぱり後ろめたさが安らぐからね。

 そんな安らぐ時になぜにわざわざ痛みの記憶をたぐろうとしてるかっていうと、今現実に痛いからなんだよね。

「痛・・・・・い・・・・・」
「おいおい捨無(シャム)!大丈夫かよ!」
「痛い・・・・大丈夫じゃない・・・・」
「ど、どうする!?病院行くか!?」
「うん・・・・・・お願い・・・・・」

 言夢(ゲンム)は車の免許を持ってないから彼女のお父さんが運転するワゴンで市民病院に連れて行ってもらった。今日は日曜日だけど市民病院には救急センターが設置されていて24時間一応どの診療科の処置にも対応できるようになっている。
 わたしが運ばれたのは整形外科。

「ガラスですね」
「はい・・・・・」
「痛いですか?」
「はい・・・・」
「どのくらい?」

 医師からこういう質問を受けるとは思わなかった。『どんな風に痛い?』と訊かれるものだとばかり思っていたから。でもその若い女性の医師はわたしの解答を眼で請うように促してきたのでそのままを答えた。

「かなり、痛いです」
「針を刺したときの痛みぐらい?」
「針?って山の?」
「え・・・・山?」

 はっ。
 いけないいけない。余計なことを言うところだった。

「すみません。裁縫道具の針ってことですよね。そういう軽くて綺麗な痛みじゃないです」
「綺麗な痛み?ふ、ふ、表現が独特ですね」

 この医師の『ふ、ふ』というレスポンスもこの状況においてならば独特だと思うけれどもそれでもわたしは応答を続ける。

「相当痛いです。ノコギリで斬られた時ほどまでの痛みじゃないですけど」
「え?『ノコギリ』?『切られた』?」
「あ、すみません。ノコギリで切った時ほどじゃないですけど」
「おい、シャム」

 医師とわたしの間からゲンムがひそひそ手話で割り込んできた。

「シャム。な、なんだよ、『ノコギリで斬られた』って」
「あ、わたし、『斬られた』なんて言ってた?それよりゲンム、わたし『斬』なんて漢字で喋ってた?『切』じゃなくて」
「ああ、バッチリわかったぞ。一体どんな目に遭ったんだよ?」
「ご、ごめん。それを言い出したら長くなっちゃうから」

 わたしは数百年来の積もる話は竹馬の友と言えるゲンムに対していつの日かしなくちゃならないだろうとは思ったけどとにかくこの痛みを早くなんとかしてもらいたいので医師の方へ向き直って会話を続けた。

「とにかく痛いです。なんだかガラスの尖端が指の肉の中で壊れかかってるような」
「えっ!?それは大変だわ!すみません、CTの用意を」

 わたしの右手の人差し指に刺さっているのはガラスの破片じゃなくて、どうやったらそんな形状に割れるのかといったインスタントコーヒーの瓶の口の部分がガラスの結晶に沿って綺麗に…そう、裂けるチーズとかさきイカの繊維みたいな、幅2mm長さ10mmほどのタチの悪い昆虫の解剖用の刃物みたいなガラスが7〜8割、つまり8mmほど刺さっていて。

「ガラスが体内に残ったらマズいです!ましてや血管に流入したら!」

 女子医師がCTの準備を指示した看護師さんにそう叫ぶように…でも独白のように言っているのを聞いてわたしよりもゲンムの不安が極度になった。

「ど、どうするよ!?この調子じゃオペだぞ!?」

 まあ確かにそう思わされるような鬼気迫るセリフを医師も言っていたわけだからゲンムの焦りようはもっともで手話のスピードも目茶苦茶速くなってる。シュワシュワシュワ!って。

「ゲンム落ち着きなさい」

 車で待ってる、っておっしゃってたゲンムのお父さんも心配になったんだろう。いつの間にか処置室に入って来ていてまずはゲンムを落ち着かせた。

「先生。彼女も不安がっています。具体的にどう処置するか説明してあげてください」

 わたしが不安に思っているだろうことを察してゲンムのお父さんは医師をも落ち着かせる。

「そ、そうですね。ええとですねCTを見た上でなんですけどね、ガラスの尖端が凹凸等なくてまっすぐであればそのまま抜きます。もしカギ状になってたりして無理に抜こうとすると中で破損したりしそうな場合には局部麻酔して切開します」
「切開ってメスで切るってことですね」
「はいそうですお父さん」
「彼女はわたしの娘の友達ですが…切った後どうするかも教えてあげてください」
「は、はい。縫合します」
「つまり?」
「糸で縫います」

 ゲンムが怒鳴りつけるような手話を使った。

「先生!家庭科の成績よかったんだろうな!?」

 幸いにしてガラスは複雑な形状ではなく、医師がそのまま抜くことになった。
 わたしは大丈夫だとゲンムに言ったんだけれどもゲンムは頑として処置室から出ようとしなかった。

「先生!手が震えてるぞ!」

 医師も看護師さんも手話はわからないはずだけど、ゲンムの恫喝するような手の動きでクレームをつけられてる雰囲気はわかるみたい。医師はまるでやんごとなき方の開腹手術でもするかのようなおびただしい汗を額にかいて、看護師さんがガーゼでその汗を拭き取ってあげていた。

 処置は二時間にも及んだ。
 ゲンムのせいで。

「先生!もうちょい右じゃないのか!?」
「うっ・・・・・・」
「先生!折るなよ折るなよ!」
「・・・ふう・・・・・」
「先生!休憩し過ぎだろ!」
「クッ・・・・・・・」

 おそらく医師のその言葉に続くのは『ソが!』だったかもしれないけれども、ゲンムの手話攻撃の挙句ようやくガラスが抜けた時、ガラスに堰き止められていた血がトポトポと溢れ出てきた。ゲンムが手話で叫んだ。

「先生!失敗か!?」

 不毛な大手術をやり切った医師がわたしに冗談で聞いてきた。

「手話を教えてください」
「え」
「『このファッキンが!』っていう手話を」

 ゲンムが極めて冷徹な表情に変わった。
 わたしは医師に言わざるを得なかった。

「先生、この子、耳は聴こえるんです」
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