第106話 老人と宇宙

文字数 2,307文字

 十二番の札所焼山寺から次の札所大日寺…四番の札所と同じ寺名…である 十三番の札所、大栗山花山院大日寺まで老爺は同行することとなった。

「奥の院に『ぼけ封じ観音様』がおわすんだよ」

 わたしはその老爺はとくに認知症の兆しがあるようにも思えなかったけれども本人曰く自覚症状が無いことこそを恐れなくてはならないという。

「お嬢さん方は老人を観てどう思う?今ふうの言葉で言えば『キモい』かな?」
「いいえ」
「いいえ」

 わたしもモヤもほぼ同時に返答した。

「人間の肌を至近距離で毛穴の奥まで観えるぐらいに覗き込んだら、赤ちゃんだろうが子供だろうが若者だろうが壮年だろうが老人だろうが…死人だろうが…全員キモいです」
「お嬢さん、良いことを言う」

 ご本尊の十一面観音様に詣でた後、ぼけ封じ観音さままで老爺に付き合った。
 老爺は自分の自覚症状の無さをこんな風に言った。

「自分より一歳でも年上の者からを『ジジイ』とみなす。自分を棚に上げて若い人に『もっと(老いている俺に)寛容に接してくれと注文をつける。あるいは若い人に対して『柔軟性が無い』とどの口が言うのかとも思うが言ってしまう。意味も無く筋トレしてしまう」
「おじさん。筋トレするのは若いからじゃないの?」
「いや、老いだよ。自分を棚に上げた老化現象だ。筋トレで若さを維持できるといった妄想と我執に囚われている」
「そうですか?筋トレはアンチエイジングと精神の安定のために…なんとかいう攻撃的なホルモンを増やすと悩まなくなるそうです」
「悩みをスルーしているだけの話だろう」

 あ
 ああ…

 スルー、ね

「筋トレして前向きに人生を送れるという人間はカルシウムが足りないからモヤモヤするんだと言って思春期の子供の深い悩みを『無かったこと』にしてしまう愚母と同じだよ。あるいはそういう子の真剣で深刻な悩みを『お前の悩みや人格の深みなどとるに足らない些事なのだ』と刷り込んでしまう愚父と同じだよ。憐れ、というほかはない」
「おじさんはどういう老人でありたいんですか?」
「せめて寿命をわきまえる人間でありたい」

 老爺は76歳だという。今時ならば76歳を老爺と呼んだらホンキで怒り出す後期高齢者もいるかもしれない。だから安易に人を決めつけることはできないけれども、少なくとも道中を一瞬でも共にしているこの老爺は、自分を棚に上げることを恐れ、現に今のところはその姿勢を貫いている。

「無駄だあっ!」

 あっ
 この間の…

「この我利我利亡者めがっ!」
「おうっ…」

 この間の修験者ふうの、けれどもイギリス国旗のデザインをあしらったロンドンブーツでわたしらを踏み殺さんという怒りに満ちたわななく声で老爺の頭を、鉄錫杖で…いいかい?鉄錫杖でだよ?…ビリヤードのキューみたいにして、突ついたんだよね、後頭部から。

 老爺もさすがに苦悶の顔になったけれども、即座に問答を始めたんだ、その修験者ぽい奴の方からさ。


「老人とは恥知らずと思うがこれいかに!」
「…他人の年齢は数えるが自分を数えない人間ならそうだろう。恥を知る人たちもごくわずかだがいるだろう」
「老人とは汚いと思うがこれいかに!」
「汚いのは間違いない。ただし老人だから、という汚さよりも自分のことしか考えない強欲さが醜いんだろう」
「物理的に汚かろうが!」
「御坊。さきほどその問題はわたしたちの間で解決しました」

 そう言って、老爺とモヤとわたしの3人でのやりとりをかいつまんで話した。

「詭弁を弄するなあ!」
「黙ってしゃべれんのか、エセ坊主が」
「なんだとぉ!?」
「お前さんの言ってることはぱっと聴きでは勇ましく諸行無常を言っているように捉える人もおるだろうけど、わしには通用せんぞ。お前さんの何十年かの修行はすべて無駄だったよ」
「それはおのれ自身が老廃物だからだろうがぁっ!」

 わたしとモヤの位置からでは修験者の一撃を回避することは到底無理だったよ。

 バカげてると思わないでほしい。

 老爺が、ほんとうに死ぬと思った。

「あうっ!?」

 修験者の仕草からは直射日光が目に入ったように見えた。

 でも、それはわたしの表現力がもう二分ほど足りないことの吐露となった。

 修験者の目には、直射日光が入ったのではなく、入り続けているのだ。

「あうう、ああう、ううううあ、あうう、ああう、ううううあ!」

 修験者の呻きが浪曲のようにリズミカルに、意味不明ではあるものの、寺院じゅうに響きわたった。

「おじさん、早く乗って!」

 モヤがレーザーで狙い撃ちされるようにして直射日光
が目に差し込み続けて残像が多分数時間は緑色に染まるであろう修験者が攻撃不能の状態になっているほんの十数秒の間にギャランを横付けしてくれていて、三人で乗り込んだ。

「おどれら!待たぬかあっ!」

 目の観えない修験者は観えないままに錫杖をぶうん!とひと回転・ふた回転・み回転させた。しかもしれは遠心力で振り回しているのではなくて、腰がしっかり入った状態で、体幹と腕力を使って制御されている。
 あの長さと太さの鋼鉄製の錫杖だとしたら100kg近いんじゃないかな。

「つかまれ!」

 シートベルトをまだ装着できていないわたしと老爺に向かってモヤは怒鳴りつけて、それからクラッチとアクセルを忙しく踏んだり上げたりしながらギャランのタイヤを立体駐車場の塗料が塗られた床面をキュキュキュと鳴らすあのこそばいような音をアスファルトの路面で立てながら修験者の躍動する地点から離脱した。

 わたしはふたりに訊いたよ。

「避けても避けても日の光が瞳孔を捕らえて離さないなんてことあるのかな?」

 モヤと老爺とふたりして同時に答えた。

「「日の神仏ならばおできになるよ」」
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