第165話 プロットは必要ないけどアンビシャスは必要だ
文字数 1,825文字
アルコール依存患者に対してはとりあえず明日の朝までだけ生きるためならば完全にアルコール断ちするのではなく、分量を減らして摂取させればよいという治療方針が主流になりつつあるって聞いていたから得心した
プロットってまるで同じ
「刹那的だねえ」
「シャムがそれ言う?」
わたしが以前から小説なり商業ロードの大通りを万度の光を浴びながら居続けているエンタメ各種なりに触れる機会があったとしてずっと違和感を持っていたよ
エンディングの、その続きは?
「興行収入が世界記録を更新したっていう映画を何本か過去世にも観たことあったけど、エンドロールの最期を観終えて家に帰ってひとりになってね、じゃあその後は?っていつも考えてた。いつも。だからひとばん寝たら救済の魔法は完全に解けてた」
「わかるよ、シャム」
モヤならなおさらそうだろう
起承転結の流れを更に章ごとにいくつかの節に分けてその中でも小なるクライマックスを設けて大なるクライマックスのグランドフィナーレに向けて話を進めていく
やってらんない
「エピソードのひとつひとつが独立して意味を持たないと無意味。あごめん、重箱表現だね。違うか。でもわかってくれるよね」
「わかるよ、シャム」
モヤの返答がプリンスのコンピューター・ブルーの『Yes,Lisa』という掛け合いのような気配になってくるとわたしは気持ちを強く持てた
プロットは、いらない
代わりに大志を
そしてたったひとつのエピソードで志成を
大志くんと志成ちゃんとに出会ってからわたしの中で志を成し遂げることをシナリちゃんに敬意を表して『志成』という動詞として使わせてもらっている
第五十四番札所 近見山 宝鐘院 延命寺
延命寺の名称は俗称だったものを正式に採用なさったという、その延命という言葉がアヤとなる
「シャム。わたしの高校の時の友だちの話なんだけどね」
「女?男?」
「男」
こうだった
その男子の父親は胃がんで胃の全摘手術を受け、退院が決まって自宅に戻ることが決まった時、医師が男子にこう言ったという
おめでとうございます
と
「『先生。まるでハッピーエンディングのアニメ映画みたいに言わないでください。父親の食事をどうすればよいんですか?父親の排泄物の処理は?もし再発したら?先生、教えてください』」
「…」
モヤが真剣な顔をしてその男子のセリフを繰り返した
「『お金は?』」
仕方ないことと割り切ればいいのかな
延命させる側の医師にとっては手術の成功・退院がハッピーエンディングだろう
手術が終わった晩に、それが難手術だったとしたら脳内に映画のエンドロールに流れるような美しいテーマ曲を鳴らして病院から自宅までの運転をしたかもしれない
けれども父親の病気が原因で母親が家を出て行ったその男子にとってのエンディングは
どこ?
「シャム」
「ええ」
「介護や看護のエンディングは被介護者や患者が死ぬときだなんて言うひともいるけれども。けれどもそれでも終わらない。通夜と葬儀の手配をしないといけない。火葬場建設が住民の大反対によって供給が足りていない自治体ならばセレモニーホール会社に任せておくだけでなく自分で手配しなくてはならない。自分で相続の手続きを裁判所にしないといけない。なまじその子が同居ってことになったら受けられる介護・看護サービスがむしろ限定されてしまうかもしれない。ねえシャム」
「うん…」
「わたしを赤ちゃんポストに入れたわたしの親たちのエンディングって、そこだったのかな?そうしてそれって親たちにとってハッピーエンディングだったのかな?」
「…モヤごめんわからない」
「…わたしこそごめんね、シャム」
プロットは患者や被介護者を持つ人間が家に帰って反応薄い患者や被介護者と同居であったとしても看護人や介護人が結局は『ひとりきり』で動かなくてはならない生活のためには
まるで役立たない
だからだよみなさん
だからなんだよみなさんよ
小説にはプロットでなく
大志が必要
美しい言葉でなく
大志を実行することが必要
大きな志が成る、でタイシくんとシナリちゃんのような逃げない若人が必要
わたしは冗談で言ってるんじゃないんだよ
ホンキでホンキの小説を書くのなら
作者が実生活において小説のエンディングのその後の人生を生きていることが必要
今生きておらずに誰かの小説や美しい言葉を紐解いて書いた小説ならば
上梓した瞬間からそう生きる義務があるよ
主人公を裏切らないために
プロットってまるで同じ
「刹那的だねえ」
「シャムがそれ言う?」
わたしが以前から小説なり商業ロードの大通りを万度の光を浴びながら居続けているエンタメ各種なりに触れる機会があったとしてずっと違和感を持っていたよ
エンディングの、その続きは?
「興行収入が世界記録を更新したっていう映画を何本か過去世にも観たことあったけど、エンドロールの最期を観終えて家に帰ってひとりになってね、じゃあその後は?っていつも考えてた。いつも。だからひとばん寝たら救済の魔法は完全に解けてた」
「わかるよ、シャム」
モヤならなおさらそうだろう
起承転結の流れを更に章ごとにいくつかの節に分けてその中でも小なるクライマックスを設けて大なるクライマックスのグランドフィナーレに向けて話を進めていく
やってらんない
「エピソードのひとつひとつが独立して意味を持たないと無意味。あごめん、重箱表現だね。違うか。でもわかってくれるよね」
「わかるよ、シャム」
モヤの返答がプリンスのコンピューター・ブルーの『Yes,Lisa』という掛け合いのような気配になってくるとわたしは気持ちを強く持てた
プロットは、いらない
代わりに大志を
そしてたったひとつのエピソードで志成を
大志くんと志成ちゃんとに出会ってからわたしの中で志を成し遂げることをシナリちゃんに敬意を表して『志成』という動詞として使わせてもらっている
第五十四番札所 近見山 宝鐘院 延命寺
延命寺の名称は俗称だったものを正式に採用なさったという、その延命という言葉がアヤとなる
「シャム。わたしの高校の時の友だちの話なんだけどね」
「女?男?」
「男」
こうだった
その男子の父親は胃がんで胃の全摘手術を受け、退院が決まって自宅に戻ることが決まった時、医師が男子にこう言ったという
おめでとうございます
と
「『先生。まるでハッピーエンディングのアニメ映画みたいに言わないでください。父親の食事をどうすればよいんですか?父親の排泄物の処理は?もし再発したら?先生、教えてください』」
「…」
モヤが真剣な顔をしてその男子のセリフを繰り返した
「『お金は?』」
仕方ないことと割り切ればいいのかな
延命させる側の医師にとっては手術の成功・退院がハッピーエンディングだろう
手術が終わった晩に、それが難手術だったとしたら脳内に映画のエンドロールに流れるような美しいテーマ曲を鳴らして病院から自宅までの運転をしたかもしれない
けれども父親の病気が原因で母親が家を出て行ったその男子にとってのエンディングは
どこ?
「シャム」
「ええ」
「介護や看護のエンディングは被介護者や患者が死ぬときだなんて言うひともいるけれども。けれどもそれでも終わらない。通夜と葬儀の手配をしないといけない。火葬場建設が住民の大反対によって供給が足りていない自治体ならばセレモニーホール会社に任せておくだけでなく自分で手配しなくてはならない。自分で相続の手続きを裁判所にしないといけない。なまじその子が同居ってことになったら受けられる介護・看護サービスがむしろ限定されてしまうかもしれない。ねえシャム」
「うん…」
「わたしを赤ちゃんポストに入れたわたしの親たちのエンディングって、そこだったのかな?そうしてそれって親たちにとってハッピーエンディングだったのかな?」
「…モヤごめんわからない」
「…わたしこそごめんね、シャム」
プロットは患者や被介護者を持つ人間が家に帰って反応薄い患者や被介護者と同居であったとしても看護人や介護人が結局は『ひとりきり』で動かなくてはならない生活のためには
まるで役立たない
だからだよみなさん
だからなんだよみなさんよ
小説にはプロットでなく
大志が必要
美しい言葉でなく
大志を実行することが必要
大きな志が成る、でタイシくんとシナリちゃんのような逃げない若人が必要
わたしは冗談で言ってるんじゃないんだよ
ホンキでホンキの小説を書くのなら
作者が実生活において小説のエンディングのその後の人生を生きていることが必要
今生きておらずに誰かの小説や美しい言葉を紐解いて書いた小説ならば
上梓した瞬間からそう生きる義務があるよ
主人公を裏切らないために