第39話 蝶よ花よと育ちたかった

文字数 1,278文字

 わたしは川に縁があるんだろう。
 所長から言いつかって出かけた現場は奥深い山もそうなんだけど少し深い谷のようになっている、ごろっとした大ぶりの石の間を流れる川があったんだよね。
 わたしはとても疲れていたから、その川原に降りて行って、でも降りる間際の途中でとても不思議なものを観たんだよね。

「蝶が空で静止してる」

 羽ばたいていない黒いアゲハが宙に浮いている。
 でもね、それはよく見たら谷の下までの距離を、ゆっくりと『落ちて』いるんだよね。わたしは胸躍ったよ。

「グライダー?じゃないよね。極めてバランスのいい紙飛行機が偶然上昇気流に乗って、下降のスピードと浮き上がろうとするスピードがものすごく拮抗していて、落ちているんだけど、上向きだよね」

 上向きだよね。
 仕事もあるから本当はこの場所から移動した方がいいんだろうけど、わたしは仕事の場所に到達するためにはここを経由しないと行けないんだろうと思った。

「腐臭がひどいですが大丈夫ですか」
「我慢します」

 スノーシェッドと呼ばれる、冬季に雪崩(なだれ)から道路を守るための側面は無数のコンクリートや鉄骨の柱で補強された陽光の差し込むトンネルのような構造物の工事のために重機を操作していた男性が誤ってショベルカーごと崖から転落したんだよね。

 男性はすぐに運転席から外に放り出されて、致命傷は多分地面に叩きつけられた時の内臓破裂なんだけど、そのまま斜面を滑落したから顔も作業着に守られていない手の甲もまるでカミソリで一本一本リストカットしていったみたいな真っ直ぐな傷が滑った方向と平行に入ってて、わたし自身の生理現象としては胃の内容物を喉辺りでもう一度呑み込むんだけれども、感性としては。

 感性としては、悲しい。

 悲しいんだよ。

「どうして操作ミスをしたんでしょうかね」

 ベテランではあるけれどもまだご令嬢が幼稚園の年長さんだというその死んだ男性の若くて判断力に溢れた頭脳で考えていたことがわたしの脳とシンクロして、理由を訊いてきた彼の勤める建設会社の管理職にわたしは答えた。

「このひとは短編小説を書いておられました。エッセイのような美しい散文を。それを投稿していたWEBサイトのコンテストで講評等も得られず、無視されたと感じたんでしょう」
「え。それで注意散漫になったということですか?」

 注意散漫。

 わたしはぞんざいな言葉を内面では使いながら、口からは丁寧な言葉で管理職に言ったよ。

「娑婆において本当に注意すべきことは、何が人生の目的かということだと思います」

 殉職であり殉死だったんだろうと思う。

 葬送はとても私的なものだけれども更にその前段の私的な弔いをその管理職とふたりで、遺体発見現場のまさに今ここで、一旦開けたブルーシートをもう一度被せて、した。

「『南無阿弥陀仏ということは
  まことの心とよめるなり
  まことの心とよむうえは
  ぼんぶのめい心にあらず
  まったく仏心なり』」
「あの・・・・・それは?」
「娑婆の『ほんとうにほんとうのこと』です」

 もしも彼が宙で静止する黒いアゲハのようだったら。

 浮かんで行けたのかも。
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