第105話 タダほど尊いものはない
文字数 1,839文字
老爺はわたしたちと次の札所まで同行した。
なにせ山中深い難所と呼ばれる地だから。
「おじさん。わたしのどこを観てそう感じたんですか?」
「お嬢ちゃんの足指かな」
うわっ。
このおじさん、ホンモノかも。
「ところで運転手さん、見事な操車だねえ」
「ありがとうございます。焼山寺に向かうこのつづら折の難所でのお言葉はドライバー冥利に尽きます」
摩盧山正寿院焼山寺
モヤは元来乗り物にそんなに強くないわたしをしてまるでコタツのまま移動しているんじゃないかと思うほど揺れもなく暖かく車を進める。わたしが助手席に乗って老爺は後部座席で手を合わせて
「南無大師遍照金剛」
と、一心に弘法大師さまを称えている中からわたしに言ってきたんだったよね。
『お嬢ちゃん、アンタ只のお人じゃないね』
その問いがわたしの足指を観てそう思ったって言うんだけど、わたしの素の足指を観ることができるタイミングはさっきのカフェで一瞬あったかないかほどだった。
「シャム。靴履き替えな」
って言ってモヤも靴を履き替え始めたからわたしもカンバス生地のデッキシューズを脱いでホーキンスのトレッキングシューズ寄りのローファーを履いて山道に備えた。
車で行くのにな、って思ったけど、モヤが
「こっから歩くよ」
って言った場所に見通しのきかない先行きの見えない上り坂の急カーブの土地にギャランを浅く停車させて、それから3人で歩いた。
なんというか老爺が一番の徒歩のプロだった。
ものすごく短いのに回転数が極めて多い歩行速度で、しかも息が上がる間も惜しんで
「南無大師遍照金剛」
と称えながら進んでいく。
そしてやっぱり巡礼の旅のプロでもあるのだろう。
「できるだけ体力を消耗させないためには足指をローリングさせるしかないぜ」
この老爺の語尾が『ぜ』とか『だぜ』なのは若い頃からの癖なんだろうと思うけれども、歩行速度は全国の霊場を歩き神社仏閣に参拝するようになった前期高齢者の頃からの仕込みらしい。となるとやっぱりどっちもプロの域なんだろうね。
わたしは老爺から足指のローリングの手法を教わった。
要は歩き方の教習だ。
「足はピストン運動じゃなくてローリングさせるんだよ」
「ローリングですか?」
「お嬢ちゃん。いいセンスしてるよ」
誉められたんだろうと思う。
つまり疲れずにかつ最大効率で歩行を進めるためには最低でも足裏…シューズのソールをもう片方の足のくるぶしよりも高い位置まで上げ、そうして踵付近から着地して、ぴとぉぉお、って感じで足裏の土踏まずを押し潰して地面を丁寧に捕らえててその体重の圧力がかかる部分が徐々に爪先に近づいていって最後は足指の中指か親指の母指球あたりへ抜けてフォロースルーするような動作をくりかえす、つまりはプロネーションがきちんとなっているっていう状況なのだけれども、横からみたら2本の足指と足裏がローリングするように前方への推進力が伝わっていく歩き方なんだ。
別に特別なことじゃないよ。
野生生物である人間としての本能があれば誰でも狩りや耕作に必要な『歩く』という基本動作を正しく、カラダを痛めずに続けることができるはずなんだ。
「ほら、お嬢ちゃん。その爪先。いいねえ」
「おじさん。わたしは只の人ですよ」
「ううんや。そんなことはないぜ。アンタの足指観たら、随分と修羅場を踏んできてることがわかったからねえ」
「修羅場なんて」
修羅場なんてさ
「薬を飲まされた程度ですよ、親から」
「ほらやはり」
老爺は我が意を得たり、という感じでそれまではやはり男性の性として少しエロティックな感情をわたしの足指に対して抱いていたのが、すぐさまその感情にシャッターを下ろしたようにした。だからわたしは詠唱し始めた。
三途の川や死出の山
たましいは独り旅の空
あわれはかなき世の中は
生死無常の境なり
遅れ先立つありさまは
電光朝露のまぼろしぞ
「お嬢ちゃん。アンタの師の名を」
「motoo」
「もとぅー?」
わたしはそのひとの名を知らしめることに躊躇しているんだけれども、この老爺にして只の人ではない。聴かぬは一生の悔いと思い執念を持って聴くのだろう。
「フルネームを」
「ダメです」
「なぜ」
「52段高の人だからです」
「人なのか、お嬢ちゃん」
わたしは首肯しない
それが答えだ
わたしたちは息の上がるのもほったらかしにして、焼山寺に着いた
ご詠歌
後の世を思えば恭敬焼山寺
死出や三途の難所ありとも
偶然なわけがない。
なにせ山中深い難所と呼ばれる地だから。
「おじさん。わたしのどこを観てそう感じたんですか?」
「お嬢ちゃんの足指かな」
うわっ。
このおじさん、ホンモノかも。
「ところで運転手さん、見事な操車だねえ」
「ありがとうございます。焼山寺に向かうこのつづら折の難所でのお言葉はドライバー冥利に尽きます」
摩盧山正寿院焼山寺
モヤは元来乗り物にそんなに強くないわたしをしてまるでコタツのまま移動しているんじゃないかと思うほど揺れもなく暖かく車を進める。わたしが助手席に乗って老爺は後部座席で手を合わせて
「南無大師遍照金剛」
と、一心に弘法大師さまを称えている中からわたしに言ってきたんだったよね。
『お嬢ちゃん、アンタ只のお人じゃないね』
その問いがわたしの足指を観てそう思ったって言うんだけど、わたしの素の足指を観ることができるタイミングはさっきのカフェで一瞬あったかないかほどだった。
「シャム。靴履き替えな」
って言ってモヤも靴を履き替え始めたからわたしもカンバス生地のデッキシューズを脱いでホーキンスのトレッキングシューズ寄りのローファーを履いて山道に備えた。
車で行くのにな、って思ったけど、モヤが
「こっから歩くよ」
って言った場所に見通しのきかない先行きの見えない上り坂の急カーブの土地にギャランを浅く停車させて、それから3人で歩いた。
なんというか老爺が一番の徒歩のプロだった。
ものすごく短いのに回転数が極めて多い歩行速度で、しかも息が上がる間も惜しんで
「南無大師遍照金剛」
と称えながら進んでいく。
そしてやっぱり巡礼の旅のプロでもあるのだろう。
「できるだけ体力を消耗させないためには足指をローリングさせるしかないぜ」
この老爺の語尾が『ぜ』とか『だぜ』なのは若い頃からの癖なんだろうと思うけれども、歩行速度は全国の霊場を歩き神社仏閣に参拝するようになった前期高齢者の頃からの仕込みらしい。となるとやっぱりどっちもプロの域なんだろうね。
わたしは老爺から足指のローリングの手法を教わった。
要は歩き方の教習だ。
「足はピストン運動じゃなくてローリングさせるんだよ」
「ローリングですか?」
「お嬢ちゃん。いいセンスしてるよ」
誉められたんだろうと思う。
つまり疲れずにかつ最大効率で歩行を進めるためには最低でも足裏…シューズのソールをもう片方の足のくるぶしよりも高い位置まで上げ、そうして踵付近から着地して、ぴとぉぉお、って感じで足裏の土踏まずを押し潰して地面を丁寧に捕らえててその体重の圧力がかかる部分が徐々に爪先に近づいていって最後は足指の中指か親指の母指球あたりへ抜けてフォロースルーするような動作をくりかえす、つまりはプロネーションがきちんとなっているっていう状況なのだけれども、横からみたら2本の足指と足裏がローリングするように前方への推進力が伝わっていく歩き方なんだ。
別に特別なことじゃないよ。
野生生物である人間としての本能があれば誰でも狩りや耕作に必要な『歩く』という基本動作を正しく、カラダを痛めずに続けることができるはずなんだ。
「ほら、お嬢ちゃん。その爪先。いいねえ」
「おじさん。わたしは只の人ですよ」
「ううんや。そんなことはないぜ。アンタの足指観たら、随分と修羅場を踏んできてることがわかったからねえ」
「修羅場なんて」
修羅場なんてさ
「薬を飲まされた程度ですよ、親から」
「ほらやはり」
老爺は我が意を得たり、という感じでそれまではやはり男性の性として少しエロティックな感情をわたしの足指に対して抱いていたのが、すぐさまその感情にシャッターを下ろしたようにした。だからわたしは詠唱し始めた。
三途の川や死出の山
たましいは独り旅の空
あわれはかなき世の中は
生死無常の境なり
遅れ先立つありさまは
電光朝露のまぼろしぞ
「お嬢ちゃん。アンタの師の名を」
「motoo」
「もとぅー?」
わたしはそのひとの名を知らしめることに躊躇しているんだけれども、この老爺にして只の人ではない。聴かぬは一生の悔いと思い執念を持って聴くのだろう。
「フルネームを」
「ダメです」
「なぜ」
「52段高の人だからです」
「人なのか、お嬢ちゃん」
わたしは首肯しない
それが答えだ
わたしたちは息の上がるのもほったらかしにして、焼山寺に着いた
ご詠歌
後の世を思えば恭敬焼山寺
死出や三途の難所ありとも
偶然なわけがない。