第76話 うつ病のわたしが宮本浩次の縦横無尽を聴くのさ

文字数 1,747文字

 今日は神社がほとりにあるこの県で二番目に長い川のその河川敷まで言夢(ゲンム)のお父さんのワゴンを借りて出かけた。

 雲はあるけれども晴れて、雲に囲まれてサンバイザーを傾けて観るみたいな日の光が強くなったり弱くなったり。だから雲の無い場所の空は空色とでもしか呼べないような青さなんだけど、ゲンムがカーナビにブルートゥースで自分のスマホをペアリングさせた。

「あ」

 わたしが運転席で運転中だからスマホをタップしてゲンムとLINEで会話することはできない。
 ゲンムはジェスチャーする。
 わたしを右手の人差し指で指差した後、両手の指を使ってハートマークを作った。

 だからその後はわたしが一方的に言語を発し、それに対してゲンムがうなずいたりううんと首を振ったりすることでコミュニケーションを成立させる。

「わたしへのプレゼント?」

 ううん。

「あ、わたしへの『お見舞い』か。うつ病の」

 うん。

 ゲンムのスマホにダウンロードされていたのは、エレファントカシマシのヴォーカル・ギター、宮本浩次のソロアルバム。つい数日前に発売されたばかりだった。

「縦横無尽」

 ?

「あ。そっか。ごめん」

 ゲンムは聴覚はある。だけれども自分の口で言語を発することはできない。他人の音声を聴いてたとえば『リンゴ』という発音が果物の赤いリンゴという概念と一致するという日常頻度の高い言葉では鍛錬をしてきているが、『じゅうおうむじん』というわたしの発音と一致させることはできなかったようだ。だからカーナビに表示されたアルバムタイトルである『縦横無尽』というその文字を指差した。

 うん。

「ゲンムはエレカシ好きなの?」

 うん。

「へえ・・・・・わたしもデビューした時からずっと好きでね」

 ?

 おっと、まずいまずい。エレカシはデビューしてもうすぐ35周年になる。わたしの表面上の年齢と合わないや。

「はは、冗談冗談。でもね、聴けるかな」

 ?

「うつ病ってね、知らなかったんだけど音楽すら聴けなくなっちゃうんだよ。つらくて」

 うん。

「静かな曲しか聴けなかった。かと言ってクラシックならなんでもいいってわけじゃなくって、モーツァルトは無理だった」

 ?

「明る過ぎる」

 うん。

「サティのジムノペディばっかり繰り返して聴いてた。動画でね、一時間延々とジムノペディをリピートするやつがあってね」

 はは。

「だからさ・・・・・わたしもエレカシ好きだし、宮本浩次さんも好きだし・・・・・落ち込んだ時はエレカシの『風に吹かれて』を出窓に腰掛けて月を観ながら歌ってみたり・・・・『悲しみの果て』を自分の長い・・・・短い人生と照らし合わせてみたりさ」

 うんうん。

「でも、今、聴ける自信がない」

 でも、ゲンムはプレイボタンをタップした。

 聴けた。

 以下、全曲。

縦横無尽/宮本 浩次
1  光の世界
2  stranger
3  この道の先で
4  浮世小路のblues
5  十六夜の月
6  春なのに(cover)
7  東京協奏曲/宮本浩次×桜井和寿
8  passion
9  sha・la・la・la
10 just do it
11 shining
12 rainー愛だけを信じてー
13 p.s. I love you

「ねえ、ゲンム」

 なに、捨無(シャム)

「わたし、治るかな」

 うん・・・・・

「わたし、楽しく生きてくこと、できるかな」

 ・・・・・・・・・

「他のひとたちを捨てないわたしであるはずなのに。捨てること無しのシャムのはずなのに」

 シャム・・・・・・・

「わたしが捨てられそうな気がして、苦しかった」

 うん・・・・・・・

「わたしの仕事も、これまでの生き方も、それから、『捨てないんだ』っていうわたしの使命感も、全部」

 縦横無尽のラストナンバーであるp.s. I love youが終わった時、河川敷に着いた。

 神社に参拝したあと、段差が大きい石段を降りて河原にふたりして立った。

 わたしはもう運転中じゃないけど、LINEを使わない。

 ゲンムとふたりで、ふたりの肩が漸近して表面張力でくっつくかくっつかないかという隙間のそのくすぐったさをたたえたままで、しゃべらない。

 土手と空の区切りから上にある青と白の雲を見た。

 河原のわたしたちの前に咲いている、多分名前を調べても分からない黄色の花から覗くようにしてさ。
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