第32話 ふくらはぎの直線に近い曲線のその下

文字数 1,910文字

 たとえばわたしは目で観て耳で聴いて状況を把握する。
 もしそうでなかったらどうなのだろうか?

観点(カンテン)さん。足下危ないですよ」
「慣れてるから。でもありがとう、シャムちゃん」

 電車のドアとホームの隙間を跨ぐ時、視覚障碍ピアニストの観点さんは広い歩幅のままでリズムも変えずに美しく歩いた。

 でも、分かるんだよね。
 この動作の裏付けとなってる観点さんのこれまでの人生が。
 きっと何度も何度もその数センチの隙間を越える時に、地獄の釜の上を超えるぐらいの判断が必要だったろうって。

 海に生き、船の上で仕事をするひとたちも、船底の下は地獄だっていうようなことを言ってた記憶があるけど、観点さんにとってはアパートの布団の下も、その下の畳の下も、そもそも二階に暮らしていることの、果たして本当に自分は安心できる土台の上にいるんだろうかっていう恐怖がつきまとってたんだろうな、って、そういう風に分かってしまうんだ。

 でも、ふたりで駅からデパートまで行く間の道路で、観点さんに言われて、ガン、ってしたよ。

「シャムちゃん。このアスファルトの下って、どうなってるの?」

 わたしたちは概ねアスファルトの上で生きてる。
 それか、舗装されてない地面の上で生きてる。
 その下にはどうやら水道や下水管やらの世界もあったり。
 更には都会地ならば地下鉄の世界があったり。
 そうして地下水の世界がある。

 山ならばその地下水は清水でさ、美しいって思うかもしれないけどさ。

 その下には科学で言うところの地殻やら地層やらいろいろあって、火山ならばマグマがあって、地球の中心もやっぱりマグマでドロドロなってるらしくてさ。

 更に言えば震災に遭った人たちにとっては、大地っていうものは信用ならぬただの泥の塊でしかなかったかもしれない。
 そこに、美しいはずの海が、単なる海水と汚泥として流れ込んできて。

 でも、決してそれはわたしが出遭ったことのない見ず知らずの人たちの話じゃない。

 みんな、毎日足元の下は底知れぬ不安。

 わたしが、誰かが、大橋の上から一級河川の川底をのぞき込んだその時の気持ちと同じ。

 布団にくるまったまま部屋に居続ける子たちも、底知れぬ不安の上に寝ているだけの話。

「シャムちゃん、ありがとうね。買い物に付き合ってもらって」
「いいんです。この間ジムノペティ弾いてもらいましたし」
「ふふ。ジムノペティ、好き?」
「はい」
「どうして?」
「安心するから」

 観点さんは今日は服を選びに来た。
 ピアノの演奏会用の服。

「演奏会って言ってもね、子供の頃にピアノを教えて下さったピアノ教室の先生が開く生徒と祖父母父兄だけが招待される演奏会だから。わたしもOGとして世話役で参加するついでに一曲だけどうしても、って言われて弾くだけ」
「生徒って大勢いるんですか?」
「今は10人ぐらいだけみたい。先生ももうお年だから」

 おばあちゃん先生だそうだ。
 生徒たちも幼稚園の小さな子から小学生・中学生・それから音楽教師志望で音大を目指す受験生の子なんか。女子だけじゃなく男子も3人ぐらいいるそうだ。
 プロを目指すような教室じゃなくて、とても安い月謝でゆったりと教えておられる。
 観点さんは子供の頃辛いこともあった毎日を、この先生に慰められ、ココロを溶かしてもらいながら大きくなったって言ってる。

 さて、ファッションショーだ。

「うーん。そのブラウスもかわいいですけど、もうひとつ何か」
「なんだろ、シャムちゃん」
「あの。思い切ってフリルを」
「え!?フリル!?」

 襟も袖もフリフリにした。
 ワンブランドで髪のてっぺんからつま先まで揃うお店で店員さんのアドバイスも聴きながら試着が完了した。
 鏡を観ることのできない観点さんのためにわたしが描写してあげた。

「幅広のツイストカチューシャ、後ろで束ねた髪の流れに沿って着けてるとほんとうにその部分だけ根元から色の違う女神さまの髪みたいで神秘的。細い首筋と手首にブラウスのフリルがなんだか満開の花みたいで、しかも白なのにうっすら色づいてるみたい。スカートもミニだけど腰のリボンが脚の真っ直ぐに近い曲線に行く視線を広い視野からのものにしてくれてるって思う」
「ちょ、ちょ、シャムちゃん・・・・・・恥ずかしい・・・・」
「最期まで続けるね。でね、観点さんの脚からふくらはぎのさっき言った『直線に近い曲線』ね。観点さんの、グレーの眼の色とね、本当に不思議なバランス美だって思う」
「眼のグレーと脚とふくらはぎがつながるの?」
「そう」
「シャムちゃんも不思議」
「お互い様。でね、ほんとのほんとに最期ね。その紺のローファー、黒のリボンがやっぱりとってもかわいいです!以上です!」

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