第58話 精神の休日
文字数 2,232文字
何もしたくない
座りたい
座って、俯いて、はあ、と息を吐きたい
ああ・あ
「お客様。終点ですよ」
「あ。すみません」
眠ってたわけじゃないんだよね
電車の横椅子に座って、額のあたりを右拳と左拳の第二関節で支えて、もちろん頭の全荷重をかけてるわけじゃないけど、眉の周辺の骨だとかこめかみのあたりの骨だとかを関節の骨で押して乳酸を拡散させるような状態でこう口腔でつぶやいていたんだ
『助けてください助けてください助けてください助けてください』
ってね
捨てないっていうことは業を負うことでもあるかもね
今は自分の額を自分の指で押す話だったけど、たとえば親の肩を揉む時に額やら頬骨やらを指圧することをするとね、肌から伝わって親の業を担ぐことになるらしい
じゃあ親孝行ってそもそもなんだろうって考えるけれども、よくよく思えば自分の親だからね
他人からしたら知ったことじゃないよね
ある時、親に勝る仏無し、っていう風に言ったひとがいたんだけど、それって少なくとも親が自ら言うことではないのかな、っていう気がする
ほんとうの親ならばこう言うんじゃないかな
『親子兄弟夫婦だと愛と情とに迷わされるんじゃない。たとえば他家から来たお嫁さんにも公正公平に接するように』
って
本当の親孝行ならば、親が過ちを犯しているとしたらそれを済度することだよね
電車から降りるまでの間にここまで考えて、そうして真夏に準じた日差しの下を歩き始めたよ
今日はわたしはトートバッグを肩から下げて、その中にはノートPCが入ってる
何に使うかというとね、レポートを書くのに使うんだ
普段の仕事における絶対的上司の源田 さんによる厳しいご指導の下、わたしは日々日報を書き溜めているのでその内容を同業の方達にも共有していただくためのレポートだよ
苦手なんだよね、こういうの
文章を書くのが嫌なんじゃなくて、ほら、鬱だから書き始めるまでにものすごく堂々巡りをするんだよね
加えてわたしは今、句点を書かない文章のつもりで気温が上昇する午後の中で歩いている
座りたい
座りたいよ
人差し指の第二関節の辺りで乳酸を散らしたい
散らしたいよ
「ア。シャム サン」
「あれ?超乃 ちゃん?」
チョウノちゃんは買い物に街に出て来ていたんだ。朝の涼しい内に電車に乗ってやって来てデパートの開店時間と同時に文具コーナーでここでしか売っていないペンの替芯を買って、それから地下の食品売り場でやっぱりここでしか売っていないオリーブオイルを買ったって言ってた。
「チョウノちゃん。お昼は?」
「マダデス」
何かおいしいものを食べたいね、ってふたりして言い合って、でも結局ゆっくりしたいからっていうことでチョウノちゃんには今日2回目のデパートに付き合ってもらうことにした。
「涼し〜」
熱量のあるものをそんなに食べる気にはなれなかったので最上階レストランフロアのお蕎麦屋さんに入った。
「鴨南蛮かな」
「ジャアワタシハオロシソバニシマス」
チョウノちゃんはわたしが最近調子悪いことを知ってる。
だから気を遣って切れ間なく
「シャムサン、カモナンバンッテナンバンデスカ?」
「え?ナンバン?あ、好きな食べ物の『何番目か』ってこと?」
「フフ」
「ええと・・・・・9番目ぐらいかな・・・・・」
「ソウ
か
かわいい・・・・・・
「ねえチョウノちゃん。読唇してその上自分の声も聴こえないのに話すのって疲れるでしょ」
「ナレマシタ・・・・・ケド、トキドキツカレマスネ」
「そうだよね・・・・・じゃあご飯食べたらさ、喋らなくていい静かな場所に行こうか」
「・・・・・?」
木陰なんだ
デパートの横にある石畳で小さな噴水のあるスペース。木製のベンチの後ろには覆い被さるような幾本かの木が植わってて。桜と、銀杏と・・・・
『スズシー』
チョウノちゃんは声を出さずに、木の葉の表面で冷やされた風に前髪をふわりと浮かせて目を閉じたそのジェスチャーで涼しさをわたしに伝えてくれた。
チョウノちゃんは発声する必要がない
っていうか声を出したところで意味ない
だって木々の葉が風でザザザザってざわめく音でどちらにしたってわたしには声が伝わらないから
葉の音のお陰で健常のはずのわたしの耳は、チョウノちゃんとお揃いの静寂さになる
葉の音は騒音じゃなくって、静寂なんだ、あくまでも
『冷たっ!』
今度はわたしが声を出さずに、ベンチの丁度足元にまで水源が近づいている噴水の池に浸していた裸足の足裏を誇張してチョウノちゃんに観えるように持ち上げ、足指の親指と人差し指をすりっと擦り合わせるようなジェスチャーで温度を伝えてあげた
『冷たい!』
チョウノちゃんもそうする
チョウノちゃんは白い麻のショートパンツで、真夏の濃い日差しに映える真っ白な脚と足を、きゅっ、っと水源に平行にまっすぐに持ち上げて、やっぱりわたしの真似をするみたいにして足指を何度か反らしてる
そうしたら彼女は夏果物がプリントされたTシャツの半袖の口から胸元の空洞に吹き込む風で、ぶわっ、と膨らんでいる布地のままで上半身を折り曲げ、右掌で水を掬った。
それを、すう、って躊躇ない軌道でわたしの顔に近づけてくる
最初のひと触れは掌でわたしの頬を撫でてくれて
そのままのフォロースルーで指の第二関節から手の甲までをわたしのおでこに当ててくれた
わたしは無言のまま目を閉じて、チョウノちゃんの手に甘えた
『気持ちいい・・・・・』
座りたい
座って、俯いて、はあ、と息を吐きたい
ああ・あ
「お客様。終点ですよ」
「あ。すみません」
眠ってたわけじゃないんだよね
電車の横椅子に座って、額のあたりを右拳と左拳の第二関節で支えて、もちろん頭の全荷重をかけてるわけじゃないけど、眉の周辺の骨だとかこめかみのあたりの骨だとかを関節の骨で押して乳酸を拡散させるような状態でこう口腔でつぶやいていたんだ
『助けてください助けてください助けてください助けてください』
ってね
捨てないっていうことは業を負うことでもあるかもね
今は自分の額を自分の指で押す話だったけど、たとえば親の肩を揉む時に額やら頬骨やらを指圧することをするとね、肌から伝わって親の業を担ぐことになるらしい
じゃあ親孝行ってそもそもなんだろうって考えるけれども、よくよく思えば自分の親だからね
他人からしたら知ったことじゃないよね
ある時、親に勝る仏無し、っていう風に言ったひとがいたんだけど、それって少なくとも親が自ら言うことではないのかな、っていう気がする
ほんとうの親ならばこう言うんじゃないかな
『親子兄弟夫婦だと愛と情とに迷わされるんじゃない。たとえば他家から来たお嫁さんにも公正公平に接するように』
って
本当の親孝行ならば、親が過ちを犯しているとしたらそれを済度することだよね
電車から降りるまでの間にここまで考えて、そうして真夏に準じた日差しの下を歩き始めたよ
今日はわたしはトートバッグを肩から下げて、その中にはノートPCが入ってる
何に使うかというとね、レポートを書くのに使うんだ
普段の仕事における絶対的上司の
苦手なんだよね、こういうの
文章を書くのが嫌なんじゃなくて、ほら、鬱だから書き始めるまでにものすごく堂々巡りをするんだよね
加えてわたしは今、句点を書かない文章のつもりで気温が上昇する午後の中で歩いている
座りたい
座りたいよ
人差し指の第二関節の辺りで乳酸を散らしたい
散らしたいよ
「ア。
「あれ?
チョウノちゃんは買い物に街に出て来ていたんだ。朝の涼しい内に電車に乗ってやって来てデパートの開店時間と同時に文具コーナーでここでしか売っていないペンの替芯を買って、それから地下の食品売り場でやっぱりここでしか売っていないオリーブオイルを買ったって言ってた。
「チョウノちゃん。お昼は?」
「マダデス」
何かおいしいものを食べたいね、ってふたりして言い合って、でも結局ゆっくりしたいからっていうことでチョウノちゃんには今日2回目のデパートに付き合ってもらうことにした。
「涼し〜」
熱量のあるものをそんなに食べる気にはなれなかったので最上階レストランフロアのお蕎麦屋さんに入った。
「鴨南蛮かな」
「ジャアワタシハオロシソバニシマス」
チョウノちゃんはわたしが最近調子悪いことを知ってる。
だから気を遣って切れ間なく
話しかけて
きてくれる。「シャムサン、カモナンバンッテナンバンデスカ?」
「え?ナンバン?あ、好きな食べ物の『何番目か』ってこと?」
「フフ」
「ええと・・・・・9番目ぐらいかな・・・・・」
「ソウ
カモ
!」か
かわいい・・・・・・
「ねえチョウノちゃん。読唇してその上自分の声も聴こえないのに話すのって疲れるでしょ」
「ナレマシタ・・・・・ケド、トキドキツカレマスネ」
「そうだよね・・・・・じゃあご飯食べたらさ、喋らなくていい静かな場所に行こうか」
「・・・・・?」
木陰なんだ
デパートの横にある石畳で小さな噴水のあるスペース。木製のベンチの後ろには覆い被さるような幾本かの木が植わってて。桜と、銀杏と・・・・
『スズシー』
チョウノちゃんは声を出さずに、木の葉の表面で冷やされた風に前髪をふわりと浮かせて目を閉じたそのジェスチャーで涼しさをわたしに伝えてくれた。
チョウノちゃんは発声する必要がない
っていうか声を出したところで意味ない
だって木々の葉が風でザザザザってざわめく音でどちらにしたってわたしには声が伝わらないから
葉の音のお陰で健常のはずのわたしの耳は、チョウノちゃんとお揃いの静寂さになる
葉の音は騒音じゃなくって、静寂なんだ、あくまでも
『冷たっ!』
今度はわたしが声を出さずに、ベンチの丁度足元にまで水源が近づいている噴水の池に浸していた裸足の足裏を誇張してチョウノちゃんに観えるように持ち上げ、足指の親指と人差し指をすりっと擦り合わせるようなジェスチャーで温度を伝えてあげた
『冷たい!』
チョウノちゃんもそうする
チョウノちゃんは白い麻のショートパンツで、真夏の濃い日差しに映える真っ白な脚と足を、きゅっ、っと水源に平行にまっすぐに持ち上げて、やっぱりわたしの真似をするみたいにして足指を何度か反らしてる
そうしたら彼女は夏果物がプリントされたTシャツの半袖の口から胸元の空洞に吹き込む風で、ぶわっ、と膨らんでいる布地のままで上半身を折り曲げ、右掌で水を掬った。
それを、すう、って躊躇ない軌道でわたしの顔に近づけてくる
最初のひと触れは掌でわたしの頬を撫でてくれて
そのままのフォロースルーで指の第二関節から手の甲までをわたしのおでこに当ててくれた
わたしは無言のまま目を閉じて、チョウノちゃんの手に甘えた
『気持ちいい・・・・・』