第99話 哲学はあって邪魔にならないかそれとも邪魔か

文字数 2,296文字

 弘法大師が唐へ文字通り命懸けで渡り密教の本流を阿闍梨から伝授されるその時に、『結縁』という儀式があったとモヤは話してくれた。
 大師はわずか数ヶ月で経典を読みこなすために必要なサンスクリット(梵語)をマスターし、ものすごい勢いで経典を読み、虚空蔵求聞持法によって与えられた神秘の記憶力によって次々と血液のヘモグロビン一粒一粒にまで染み込むようにして暗唱し尽くしていくのだが、その段階を上げていく際の関門試験と呼ばれるのがその仏との結縁の儀式だった。

「弘法大師さまは見事ことごとく大日如来との縁を結ばれた」

 その方法がさ。

 縁、なんだよ

「目隠しをし、左と右の人差し指に一輪の花の茎の下を挟んでさ。それでマンダラに描かれた仏の上に落とすのさ」

 外れたら、そこで終わり。

 すべての修行がそこで終わり。

 そして弘法大師は見事、ど真ん中に落とした。

 ことごとく。

 縁

 それって思考でもなく

 頭脳でもなく

 感覚でもなく

 精神ですらない

 ただただ、縁

「シャム。わたしはさ、哲学で一席ぶる奴が苦手なんだよ」
「哲学とか信念って正しく生きるためには必要なんじゃないの?」
「シャムは正しく生きてる?」

 ええと

「わからない」
「シャムですらそうなんだ。だったら他の奴においておや、さ」

 褒められてるんだね、きっと。

「モヤ。じゃあモヤは物事を判断したり決めて行動したりする時に何を拠り所にするの?」
「敢えて言えば、無、なのかな」

 ああ
 そうだった

「考えるまでもなく、もう決まってるって思うんだ。ねえ、シャム。シャムはさっきわたしが山の中でシャムのつむじのあたりに鼻をぐりぐりしたり口に髪の毛を咥えたりしたときどんな気持ちだったかわかる?」

 ぐりぐりとか咥えるなんて大雑把なやり方じゃなく、ほんとうに繊細でエロティックで甘美なふれあいだったけど…

「ごめん。わかんない」
「『あ、蚊が跳んでる』って薮をみてた」
「ふふふふ!」

 そんなもんだよシャム、っていわれて、こういう感覚とだから哲学は要らないんだ、っていう思考が結びつかないのが面白いなあって笑っちゃった。

「ふ・ふ。じゃあモヤ、弘法大師さまが密教の儀式で大日如来さまの上にお花を落としたのも、それぐらい軽いってこと?」

 わたしが訊くとね、モヤはものすごく真面目な顔で答えてくれたよ。

「ある意味、そうだよ。大日如来の上に『吸い込まれた』わけだろうから、弘法大師さまがお生まれになって子供の頃の出来事や山野を駆けての命懸けの修行や虚空蔵求聞持法の満了や唐への航海といった経験を経て、弘法大師さまが考えるまでもなく大日如来さまの方から『来いよ、来いよ』と呼ばれ続けておられたんだろうよ。そういうもんだよ」
「おおぅい!」

 わたしたちが縁の感覚をふたりで分かちあって気分が清涼になってきていた時、ドスの効いたその声がモヤは右耳、わたしは左耳に流れ込んできたんだよ。

「おのれら、ワシにも語らせよ!」

 白装束だからお遍路さんかと思ったんだけど、その年齢が分かりづらい男の人はね、チェーンを頸に垂らしてるんだよ。

 それも、アクセサリーのチェーンじゃなくて、どう見ても古典的な不良が武器に使ってた、自転車のチェーンにしか見えないんだよね。

 一瞬荒法師というか、修験者なのかな、って好意的に観てみようともしたんだけど、履いてるのが高下駄じゃなくて白のロンドンブーツなんだ。

 イギリス国旗の刺繍入りの。

「なんだその格好は」
「おのれとて破廉恥な格好をしておろうが!」

 その和風なのか洋風なのか古風なのかまったくわからない衣服のセンスにわたしの警戒感が極大になっていく。

 関わっちゃ、ダメだ、と。

 縁もゆかりも無い人間のままにしておくべきだ、と。

「モヤ、行こう」
「でもこいつが」
「いいから!」
「おおぅい!ワシの言うことを聞いてくれ!」

 なんなんだろう。

「ワシが思うに!この世は既に滅んでおる!若いモンは年寄りを忌み嫌い、年寄りは若いモンを年寄りになるまでこき使おうとボケたフリをする」
「どういうことだ」
「ボケたフリをして時間切れを待つのだ!そうして最終的には自分のわがままを通すのだ!」
「そんなお年寄りばかりではないのでは?」
「なら訊くぞ…ええと…」
「シャム。この子はモヤ」
「シャム。年寄りは臭くないか!?」
「わからない」
「年寄りはうんこを垂れぬか!?」
「わからない」
「年寄りは卑怯ではないか!?」
「わからない」
「年寄りは嘘つきでないか!?」
「わからない」
「年寄りは愚痴でないか!?」
「わからない」
「年寄りは涙もろくないか!?」
「わからない」
「年寄りは自分より一歳でも年上の人間を『じいちゃん』『ばあちゃん』と呼ばぬか!?」
「それは違う」
「なに」

 わたしはゆっくりと彼に答えた。

「それは違います。わたしの知っている年寄りは、町内の老人会で高齢者を慰労する会の挨拶を、自分自身が年寄りのクセに自分より5歳も若いおじいさんたちにしておじいさんおばあさんたちを『もてなす側』の人間として自分は絶対に年寄りと呼ばれたくないという風に振る舞っていました」
「世も末よ!」

 そう大音声で怒鳴って、ジャン!って柄のところに大きな胡桃の実をあしらった飾り物をつけた長い鉄杖を地面にひと突きして、そのまま走って道路を曲がって行った。

「モヤ。有名なひと?」
「いや…初めて観る顔だよ。ちょっと道中気をつけないとな」

 モヤはまたあの男の人と出会うことを縁だとでも思ったのか、再びの遭遇に備えて護身グッズでも途中のホームセンターで買って行こうかと提案してきた。わたしはそれに答える前に言っていた。

「モヤ。あれが彼の哲学かな?」
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