第108話 わたしは膿を吸えるだろうか?

文字数 1,841文字

 雨だね

 冷たい雨だよ

 わたしは密かに期待していた

「モヤ。『そのひと』のゆかりがあるんでしょう?」
「うん。ご位牌の厨子が納祀されたそうだよ」

 捨てること無しを旨とするわたしの憧れのひとではある。わたしごとき者が憧れるのは畏れ多いかもしれないけど。

「シャム、そんなことないよ。だってシャム。学問の本質ってなんだかわかる?」
「学問の本質?」
「聖賢豪傑がなさった行いを、学び・ココロに刻み・それを実践することが学問だよ。だから、その教科書となるお人が最上の尊いお方であれば、その国のひとたち全員のココロも行いも最上の尊さを目指すことになるんだよ」

 ほんとにそうだ。
 
 そうしてそれがその国の国柄となって、世界の国々からも尊敬を受ける立国ができる。

「シャム。もうひとつ大事なこと」
「うん」
「今のこの国の研究と呼ばれるもののほとんどが学問じゃなくなってしまってる。功名・自己実現・金儲けに成り果てている」
「…つらいね」

 十五番札所 薬王山 金色院 國分寺

 光明皇后さまのご位牌の厨子が納められたという。

「ようこそお参りくださいました」
「ありがとうございます」

 修行中の若いご坊さまがお茶を振る舞ってくださった。あられが混じった少し冷たい雨のせいか訪れたその時間帯がいつもそうなのか、わたしたち以外に参拝する人がいないから気兼ねせずにとおっしゃってくださった。わたしたちが腰掛ける縁側の木板にご坊さまは正座して自らお接待してくださった。

「そうですか。光明皇后さまが貴女の目標ですか」
「わたしのような浅瀬でちゃわちゃわしている者が慈悲広大な皇后さまの真似など到底できないこととは分かっているのですけれども、それでもわたしはわたし自身に問わずにはいられないんです」

 わたしは一生分の…他の人間よりは多少なりとも長いこれまでの…激情を一どきに込めるつもりでご坊さまに言った。

「わたしはほんとうに膿を吸えるのだろうかと」

 光明皇后さまはまさしく仏が人の姿をしてこの世にお生まれになった方のはずだ。ご坊さまは簡潔にわたしの意図を確認した。

「施薬院で光明皇后さまが病人の垢を千人落とすことを発願なさった。そして999人までほんとうに垢を落としていかれた…それだけでも到底人間の浅知恵で想像できぬほどの、まさしく弘法大師さまが四国の山野断崖を修行なさったほどのご苦労と重なりますが、1000人目のことをあなたはおっしゃるのですね?」
「はい。その通りです」
「シャム。その1000人目の人が、重症の癩病患者で全身が膿で覆われていて、それを皇后さまに吸い出して欲しいと言ったんだよね?」
「うん。多分だけれども、これはさまざまな創作にさまざまな形で引用されてると思う」
「と、おっしゃると?」
「はい。たとえば今流行っている異世界転生の小説なんかで、主人公や主要な登場人物たちがいかに人望や人徳があるかということを示すために危険で損な役回りを敢えてさせて…そうしてその相手が実はこの事実のように実は阿閦如来さまだったという風に、主人公たちが助けた相手を国王や王子だったとか…」
「なるほど。確かにそういうエピソードがあれば誰もその主人公たちを軽んじることはできませんよね」
「でも、わたしはそこで敢えて問いたいんです。筆者に向かって」
「シャム…」
「わたしは膿を吸えるでしょうか?あなたは膿を吸えるでしょうか、と!?」

 トン!ってわたしは力が込もるあまりにほうじ茶を淹れてくださった湯呑みを木板に強く置いてしまった。

 引く、よね…ふたりとも

「シャムさん。わたしとて同じです」
「えっ」
「行基菩薩さまも弘法大師さまも、仏法を弘め護ってこられた聖賢豪傑の大恩人方は皆、実践をなしてこられました。井戸を掘り、野を拓き、病人たちに薬草・薬湯を施し…光明皇后さまのその功徳もまさしく実践のお手本、聖賢豪傑の日本の大恩人でしょう」
「…はい!」
「シャム」
「モヤ」
「シャム。わたしもそうありたい。先達ドライバーとして奉職する身である以上、光明皇后さまの爪の垢ほどでもいいから実践したい。あ、垢を落とされたから爪の垢って言ったわけじゃないからね」
「ふっ」
「さあ、わたしも」

 ご坊さまは若々しく、法衣もぴし、として宣言なさった。

「わたくしども3人は仏縁により、お大師さまのご縁によりこうして本日集いました。その上は毛ほどでも光明皇后さまの広大無辺な慈悲心を…あ、わたしが剃髪しているから毛ほどでもと言ったわけではありませんからね!」
「ふ」
「ふ・ふ」
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