第172話 魔訶止観にも書いて 徒然草75

文字数 648文字

□退屈でやるせなく寂しく悲しい人は、いかなる心なのだろう。心が他のことにまぎれることもなく、ただ一人でいることのみこそ良けれ。世の中に従えば、心は外の世の汚れに奪われて惑いやすく、人に交われば、言葉についても外聞に随うようになり、全く心にもないことを言う。人と戯れたり、物を争ったり、ある時は恨み、ある時は喜ぶ。その心は定まることがない。分別がむやみに働き、損得を考えることがやむ時がないのだ。惑いの上に酔ってしまい、酔いの中に夢を見ているのである。走り廻って忙しそうにし、ぼんやりして忘れてしまうこと、人は皆かくの如くなるのだ。いまだ、まことの道を知らなくても、世俗の縁を離れて身を閑静にして、俗事に引き受けたりせず心を安らかにすることこそ、少しの間でも、楽しんでいると言えるだろう。「生活・人事・技能・学問等の諸縁をやめよ」とこそ、中国隋代の仏教書である魔訶止観にも書いてあります。
※徒然を侘びる人。他人に気を遣うこと無く、独居するのが良いという。最近、独身の男女が増えているのは、兼好先生の教えに感化されたのだろうか。そんなことはないでしょうが、惑いの酔いのなかに夢を見て忙しく1日にを過ごし、満足しているのがサラリーマンでもありましょう。すこし我が身を立ち返って反省し、少しの間でも座禅などして、心を洗われる思いを体験することが、必要なのでしょうか。太古の昔より仏道ではこのことが説かれているようです。眼を瞑り、世の喧噪を忘れ、心豊かになる、時間を持たなければいけないと思うこの頃です。
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