第135話 名誉・利欲・才能は煩悩の増長 徒然草38

文字数 1,127文字

□名誉と利欲に使われて、閑かなる暇なく、一生を苦しむなどは、愚かなことである。財多ければ、身を守るに惑う。災いを買い、面倒なことを招く仲立ちとなる。自分の死後には、金をして北斗星を支えようとも、残った人のために煩わしがられるに違いない。愚人の目を喜ばせる楽しみ、また味気なし。大きな車、肥えてる馬、金玉の飾りも、心ある人は、嘆かわしく愚かなりとぞ見るだろう。金は山に捨て、玉は淵に投げるべし。利に惑うは、とりわけ愚かなる人なり。
埋もれる名を長き世に残してこそ、理想的であり、位高く、高貴な人だからといって、優れたる人と言えないだろう。愚かに拙き人も、名家に生まれ、時流に乗り、高き位に昇り、奢りを極めるもあり。立派な賢人・聖人・みづから賤しき位に居り、時流に乗れない人も、また多し。
ひたすらに高き官・位を望むも、利欲の次に愚かなことである。智恵と心とで、世の優れた誉も残したいものだが、つらつら思えば、誉を愛するは人からの外聞を喜ぶものだが、ほむる人、そしる人、共にいつまでも世にとどまってはいない。伝え聞く人も、またまたすみやかに世を去って行くのである。誰をか恥じ、誰にか知られんことを願ったらいいのか。誉はまた謗りの元になる。死後の名声、残っていても、さらに益なし。これを願うのも、次に愚かなり。但し、しいて智を求め、賢を願う人の為に言うならば、智恵が出てきたので偽りがあるのだ。才能は煩悩が増長してなせる技なのである。伝えて聞き、学びて知るは、まことの智ではない。いかなるをか智と言うべき。可・不可は一条(同じ筋道)である。いかなるを善というか。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰が知り、誰が伝えているのだろうか。これは、徳を隠し愚を守っているからではない。もともと賢愚・得失とかいう境地には居られない存在なのである。迷いの心を持って名誉と利欲の要点を求めたら、このような如きであった。すべてのことは皆、非(道理に反すること)なり。言うに足らず、願うに足らず。
※名誉と利欲を求め人は奔走する。金持ちになると奢る平家は久しからずという。才能があると言われる者は、煩悩が増長しているだけの話し。貧乏人、凡人が良いのか、金持ち、才人がいいのか、知りたくなる。貧しくても心豊かであれば良いと思う。才がなくても、楽しめれば良いと思う。兼好先生が言うように、可・不可は一条である。同じ筋道の上にあるものだという。条理という、物事の筋道や道理の線上にあるものなのか。結論があっても、すべては消滅する。生の世界は、混沌としているが、死後は無の世界なのだ。
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