第127話 死後のなりゆき 徒然草30

文字数 1,055文字

□人の亡き跡ほど、悲しいものはない。四十九日の満中陰の頃、山里などに移って、不便で狭い
所に大勢の人が居て、後の法要などに参加するのも心あわただしいものである。日数の速く過ぎて行く様は、ものに例えられない。終わり果てた日は、興も冷めて、お互いに言うこともなく、自分こそ賢いというように、物を整理して、ちりじりに去って行く元の住家に帰ってから、さらに悲しいことが多いに違いない。「しかしあんなことは、縁起の悪いことだ後のため忌むべきことである」など言い合えるのは、こんな人が悲しんでいるときに何でそんなことを、人のこころはなんて鬱陶しいものなのだろうかと思う。年月が経っても、つゆ忘れることはないけれど、「去る者は日々に疎し」と言っていることなので、そうはいえど、あの時期では言えないことでも、つまらないことを言って、うち笑っている。亡骸は人気の無い寂しい山の中に埋めて、しかるべき日にだけ詣で行ってみると、直ぐに卒塔婆も苔むし、木の葉で降り埋もれ、夜の嵐、月だけが訪れ慰めてくれている。思い出して偲んでくれるひともあるにはあるが、それも又程なく失せてしまい、聞き伝えだけの子孫があわれと思ってくれるだろうか。その上、跡を訪うことも絶えてしまえば、何時の時代の人か、名前だに知らず、年々の春の草のみぞ心ある人はあわれと見てくれるだけで、果ては嵐に咽ぶ松も先年をを待たずに薪に砕かれ、古き塚は鋤かれて田圃となってしまう。その形すら無くなってしまうのは悲しい事である。
※人が死ぬと、通夜だ葬儀だ四十九日だ、23年忌だと法要を行ってくれる所はいい。クリスチャンは死んだ時、牧師が祈り埋葬されるが、日本のような法事はないと聴いた。土中に埋めた亡骸も最初じゃ土饅頭のように盛り上がっているが、段々萎んでいき、最後は土になってしまう。自然に帰る。今や火葬で即座に灰となり土中に馴染み、自然に帰っていく。人は病気で死ぬのでは無い、怪我して死ぬのではない、自殺して死ぬのでは無い。その人の寿命がきたから死ぬのである。という僧侶もいる。そう思えば生きていることも楽になるのでは無いか。自分の寿命がきたから、お迎えがきたから、自然の中に戻っていくのだと思えば。忘れ去られるというのも、時の恵かもしれない。何時までも悲しみ苦しみを記憶しているのは、精神的に破滅する。つまらないことで悩むのは、馬鹿らしいと88歳のご婦人はいう。種を植え、双葉を見るのが一番楽しい。ちいさなことに喜びをみいだすことが一番の幸せなのかもしれない。
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