第111話 歌の道の今昔 徒然草14

文字数 795文字

□和歌こそ、魅力的なものであるが、身分の卑しい者や木こりの行為も、言い出してみるとおもしろく、恐ろしいものも「ふす猪の床」と言えば、優しく聞こえる。この頃の歌は、一節をおかしく言い表したように見えるものはあるけれど、古い歌のように、どうしたことなのか言葉の外に、しみじみとした情感を感じさせものがない。貫之が、「糸による物ならなくにわかれ路の 心ぼそくも思ほゆる哉」というのを古今和歌集の中の屑歌と言い伝えられているが、今の世の人が詠むことができる言い回しとは思えない。その時代の歌には、歌体・言葉、この類のみが多い。この歌に限りこのように言い立てられるのは、どうも納得がいかない。源氏物語には「ものとはなしに」と書いている。新古今には、「残る松さえ峰にさびしき」といえる歌をいうのは、まことに、少し砕けた姿にも見える。されどこの歌も衆議判の歌合せの時には、優秀であると評決があり、後にもことさら感じられたと仰せられたという、後鳥羽上皇に仕えた源家長の日記には書いてある。歌の道のみは昔から変わらないというけれど、さてどうだろうか、今も詠んでいる詞・歌枕も、昔の人の詠んでいるのとは、決して同じものではなく、簡単で率直で、表現もさっぱりしており、情感も深くみえ、後白河法皇の歌謡集である梁塵秘抄の郢曲と言われる俗曲の言葉こそ、またしみじみとした情感あるものが多く、昔の人はただ無造作に言う口癖も、皆素晴らしく聞えるのではないだろうか。
※なかなか味わいのある文章でございます。紀貫之様の糸による物ではないのにという歌が屑歌と言われているいるが、そうではないという。昔の歌はシンプルで素直な感じの表現が多く、今時の作者のまねのできない手管があると仰っておられますが、そうなのでありましょう。エッセイもこのように、格調高く書きたいものですが、難しいですね。
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