第243話 徒然草を読んで

文字数 2,609文字

 天皇の御所があった京都においては、有名な史跡や過去の著名人は、数限りなく、存在している。徒然草は、兼行法師の書いたもので、日本三大随筆といわれ、学校の教科書にでるほど有名である。徒然草を読むと、千三百年頃の公卿社会の出来事や仏教の話が、具体的に描かれている。世の仕来りや行動に対する人の考えは、当時も現代も、相変わらずと感じさせる描写が素晴らしく、最後まで読むことが出来た。
 京都へ行けば多分、兼好法師歴史館などがあり、原本や筆や机または庵の模型などを見ると、理解が深まるのではないだろうか。書かれている場所へ行き、自分の目で確かめたいと思い、一泊二日の、ときめき兼行法師の旅を計画した。
 京都大学近くにある吉田神社で、社務所の神官に尋ねてみた。多勢の兼好ファンが訪ね質問するのだろうか、迷惑そうに「当神社は吉田兼好とは、なんの関係ありません」と断言する。兼好没後百年後に吉田神社は創業し、創業者吉田兼俱の作り話であるという。ネットでは「兼好法師の出身神社だ」と書いてあるのに、間違いなのだ。
 期待した夢も、最初から萎んでしまった。気を取り直し、次の上加茂神社に電車で行った。赤と黒の馬を競争させる競馬は、現在でも五月に開催される。竹柵で馬場を囲む準備が行われていた。御札を売っている神官に、兼好法師の謂れを聴くと「見物人としてきたのじゃないのでしょうか」と、これもつれない返事である。
 倒れそうになり、三ヵ所目の下鴨神社に行った。庵のレプリカが展示されてあった。兼好法師のではなく、有名な鴨長明が住んでいた所だという。徒然草によく出て来る葵祭。使う葵を植えてある場所はあったが、兼好のことは一切表示されていなかった。 徒然草は有名なのに、京都では兼行法師を取り扱っている所は、ないのだろうか。
 最後に、「稚児と法師が宝探しをして遊んだ」という話しが出て来る仁和寺に行った。出合った僧侶に訊くと、「徒然草は仁和寺の暴露本ではないですか」と軽薄な感じで笑う。「兼好法師の塚が、すぐ近くの長泉寺にあります。行って見たらどうですか」と言い、地図を書いてくれた。 長泉寺の墓地の片隅に、兼好法師の塚と刻まれた丸い石が、寂しそうに立っていた。ここが、唯一の兼好法師の存在を物語る史跡なのだ。「記念館など建立し、もっと盛り上げてくださる人物が、京都にはいないのですか」と言いたくなった。
 当日は不在だった長泉寺の住職へ、後日電話で尋ねると「仁和寺の裏山の双ヶ岡(ならびがおか)という所に、庵があったのは事実のようです。塚は、兼好法師の愛好者が後世、この寺に置いたのではないだろうか」という。ついでながら「大阪阿倍野と三重の伊賀上野に兼好ゆかりの地がありますよ」と教えてくださった。
 徒然草は兼好法師が五十歳の頃に、なにかをすることもなく、過去を思い出しながら綴ったもので、世間には公表されていなかった。七十歳過ぎに亡くなり、彼が死んで百年後、法師で歌人である正徹という人が、徒然草を発見書写して、世に発表した。その後有名になっていったようである。和歌の分野では、勅撰を手掛ける藤原為世の門下生であり、四天王といわれ、当時、多くの作品を発表している。五十歳以後のことは、徒然草には書かれておらず、阿倍野や伊賀上野の描写はない。私は、「徒然草を書き終えた後、兼好法師は何を考え生きていたのか」を知りたくなった。
 事前にネットで兼好法師の大阪と三重を調べてみると、大阪阿倍野の正圓寺に兼好法師の遺跡があるという。三重にも伊賀上野の種生に兼好法師の塚が存在するとある。私は、喜び勇んで大阪・三重の追跡一泊旅行を計画した。
 正圓寺門前に「兼好法師藁打石」の碑があり藁打石が鎮座していた。立派な遺跡である。境内に入ると半ズボンにTシャツ姿で麦藁帽を被り、草を抜く人がいた。「暑いのに、ご苦労さんです」と頭をさげた。このお寺の住職であった。前もって電話していたので、「分かりましたどうぞ」と寺の棟続きの住宅に上がらせてもらった。暫らく待っていると、「本からコピーしたものです」と言い、説明をいただいた。兼好法師がこの地へ来たのは、21歳で戦死した畠山顕家の弔いの為です」という。弟子の命婦丸の家業・畳屋の藁打ちを手伝い、滞在したという。
 畠山顕家は、高貴な生まれで、幼くして文武の才能がずば抜けていた。後醍醐天皇の南北朝の争いのなか、多くの戦功をあげた。彼は、天皇に「悪政は辞めるべきです」と諫言し、文書も差し上げた。阿倍野地区の戦闘で、奸計にあい戦死し、阿倍野神社に祀られている。一三三八年に顕家が戦死しており、当時、兼好は五十三才位だった。この地へ来て滞在し、供養したのは間違いない。「よくぞ遺跡として兼好法師の物語を残してくれました」と、大阪人の心意気に一安心した。
 大坂の後、私は三重県伊賀上野で泊まり、レンタカーで種生に行った。一時間かかり、山里に着いた。地域センターで兼好法師の情報を聴くと、この地域で昔から伝わる兼好法師の物語をしてくれ。地域の観光パンフレットを頂いた。種生の国見という所に草嵩寺という、永平寺に匹敵するほどの大きな禅寺があった。そこに兼好はお世話になり、晩年を過ごしたという。現在、寺は存在しないが麓の常楽寺に兼好の和歌の短冊や肖像画が保管してあるらしい。
草嵩寺跡は公園になっている。その向いにある農家を訪ね、長老に訊いた。「兼好法師が居り、寺のお世話になっていたと、先祖から言伝えがある」大昔は、田圃ができ、米さえあれば、山の上でも人は生きて行くことが出来た。清貧な生活を望んだ兼好はこの地を終焉の地として、選んだのだった。木陰が涼しく眺めのいい山の上に、兼好法師の厳かな塚がある。
 徒然草が全てではなく、生涯を通じて、力を注ぎ続けたのは和歌であったようだ。自ら「兼好法師家集」を残している。勅撰和歌にも多くの作品がある。本業は、世捨て人の法師であり、その生涯は、「公卿と交流のある和歌の詠み手」であったというのが兼好法師の本当の姿だったのではないだろうか。本を読み、京都・大阪・三重を旅して、兼好法師の姿が見えたような気がした。
 兼行法師にとっては、和歌が命であった。数々の才能ある和歌を発表している。しかし、未発表の随筆である徒然草が、後世においては最も優れた、心打つ作品であると評価されているのである。
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