第170話 人伝えの虚言 徒然草73

文字数 1,069文字

□世の中に語り伝えられることは、真実のことは興味が湧かないので、多くは皆な虚言即ち嘘である。実際あるものの程度を越えて、人々は物語を言いはじめて、ましてや、年月が過ぎ、境界も遠く隔たっていれば、言いたいように物語をして、筆にも書き留めるので、やがてそのまま定着してしまう。その道の大家で凄いことなどを、教養がなく頑固な人で、その専門分野を知らない者が、むやみに神の如く言うのだけれども、その専門分野を知っている人は、今さらに信用する気も起こらない。話しに聞くのと見る時とでは、何事も変わるものである。かつ、嘘がばれるのも顧みず、口に出任せで言い散らすのは、やがて根拠がないことだと聞く人は思う。また、自分でも誠かどうか分からないと思いながら、他人が言ったままに、鼻をぴくぴくさせ言うのは、その人が作った のではない。もっともらしく所々にハッキリしないようなふりをする、よく知らぬふうをして、けれども、つまづまを合わせて物語る虚言は、恐ろしいことである。自分のために名誉のあるように言わる嘘については、人はそれほど抗弁することはない。皆人が興味をもつ虚言は、ひとり「そんなことはなかった」と言うのも無益だと聞いているうちに、証人にさえされ、いよいよ虚言が定まってしまうものだ。とにもかくにも、虚言が多い世の中である。ただ、常にある、珍しくもない話だと心得ていたら、万事間違いはないだろう。庶民の人の物語は、耳驚くことのみあることだ。立派な人は怪しいことを語ることはしない。そうは言っても、仏神の不思議な霊験や仏が人の姿をして救う伝記、そう一概に信ぜざるべきことにもあらず。これは世俗の虚言を細やかに信じのもばかばかしく、「絶対にありはしない」など言うのも、どうしようもないし、大方は誠らしく応対し、むやみに信じたりせず、また、疑ったり嘲ったりしてはいけないのである。
※当時の鎌倉時代などでは、人の話は虚言が交じっていたのであろう。現代と比べ情報の量が少なく、人の口を介して情報がつたわるのであるから、当然、元の話しが段々薄れていき、違った話が加わってくる。伝達ゲームとかで最初に話した人の内容が、10人目にはとんだ話しになっているというのはよく聞く。現代でフェイクニュースが伝達されるが、これは悪意に嘘をつくのであり、昔は善意を交え情報であったのではないだろうか。ブログを書く場合は、事実をよく確認して書くようにと先生に言われていた。兼好先生がタイムスリップして現代の世界にやって来たら、徒然草も大分原文を書き直していかれたに違いない。
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