第155話 世俗を貪る者に極楽往生は 徒然草58

文字数 837文字

□「道心あらば、住む所によらないだろう、俗世にいて、人に交わっていても、死後の世界を望み願わんとすることは難しくはないだろう」と言うのは、全く、後世を知らない人である。本当にこの世をはかなみ、必ず生死の世界を脱却しようと思っているのに、何の興味があって、朝夕、主君に仕え、家庭を顧みる営みに励むのであろうか。心は因縁にひきずられて移るものであるから、閑かな所でないと、仏道は行い難いのだ。その器量は、昔の人に及ばず、修行で山林に入ったとしても、飢を凌いだり、嵐を防ぐ手立てがなくては、生きてはいけない程度だから、たまたま世俗を貪るに似たようなことも、場合によってはあるだろう。さればとて、「出家した甲斐がない。その程度ならば、なんで俗世を捨てたのか」などと言うのは、酷い言い方である。
さすがに一度道に入って世を厭う人は、たとえ欲望があっても、権勢ある人の貪欲多きに似ていると言うほどではないだろう。紙の衾、麻の衣、一鉢の食事、アカザの吸い物、これらがどれ程の費用というのか。求むる所は容易く手に入り、その心は満たされるだろう。僧の姿をしているので、物欲を恥じる所もあるし、さき程の批判はあれども、悪には疎くなり、善には近付くことが多いだろう。人と生まれたという印しには、なんとかしてでも俗世から遁れることこそ、あってほしいことである。もっぱら貪ることをつとめて、悟りの境地に向かわないのは、あらゆる畜生の類と変わらない所ではないだろうか。
※俗世と縁を切り、出家し生死の世界を脱却することは、欲望を捨て去ることが必要であるという。最小限の寝床・粗末な衣類・一杯のごはんに吸い物、これくらいは許されるだろうという。厳しい僧坊の世界は今でも、禅宗の修行僧の訓練では実施されているようだ。現世の生ぬるい怠惰な生活では出家の苦しみには耐えられないだろう。そんな苦しみを凌ぎ、死後の世界を望むことができる。俗人すべて往生するというのは、間違っていると兼好先生はおっしゃるのです。
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