第225話 日常

文字数 1,887文字

「ピンピラごぼうにパラリラパラソー♪」
 スマートフォンから自作の曲が流れる。目覚ましだ。
ーーあっ!
 サオリは、勢いよく飛び跳ねた。自室のベッド。時計の針は十一時。クマオはまだ寝ている。
ーー仕方ないなー。
 余裕が出てくると、サオリはいつものように、自分の体調チェックを始めた。
ーー痛。
 筋肉痛よりも先に、大きな痛み。
 サオリは、自分の両足を見た。
 ガッチガチにテーピングされている。自慢の美脚が台無しだ。
ーーミハエルが、やて、くれたのかな。
 サオリは愛情を感じて嬉しかった。けれども、これから学校へ行く。シャワーを浴びなくてはならない。もったいなかったが、テーピングを外してお風呂に入り、また、簡易的ではあるものの、テーピングを巻き直した。さらに上からストッキングを履く。これで目立たない。
ーーよし。カワイイもバッチリ!!
 制服を着て、準備は完了だ。
 今は夏休みだが、この後、午後から学校に行かなければならない。九月にあるオーケストラ全国大会の予選に向けて、週に一度、音楽部の合同練習があるのだ。
 いつもは、猫のように跳ねながら学校に向かうのだが、今日は両足が痛い。しばらくは、歩いて向かうことになる。
 サオリは、少し早めに家を出た。ミハエルもママもいない。「いってきます」の挨拶ができないことは寂しい。
 つい五時間前まで、サオリは死闘を繰り広げていた。あの出来事が、まるで嘘のように日常を取り戻している。
ーーあれだけ万雷の拍手喝采を浴びたアタピ。なのに、今は誰もアタピのことを知らない。
 道ゆくサラリーマンもサオリのことを知らない。違う学校の制服を着た女子高生もサオリのことを知らない。チラチラと見ていく人もいるが、単に自分が可愛いから見ているだけだろう。
ーー考えてみたら、どんなにアタピが素晴らしいことをした偉大な人間になっても、アタピのことを知らない人にとって、アタピはただ、可愛いだけの女子高生に過ぎないんだな。
 何人かの人と目が合う。男はみんな目を逸らすか、ギンジロウのようにニヤけた顔をする。
ーーそしてアタピも、この人たちのことを何も知らない。
 サラリーマンは、同じようなサラリーマンと、会社の中で生きている。学生は、同じ高校の人たちと、高校生という括りの中で生きている。みんな、その世界で、その価値観で生きている。
 学生は学生ぽく、社会人は社会人ぽく、不良は不良ぽく。そして、特に何も考えることなく、他の世界で生きている人の常識は間違っていて、自分の世界の常識が正しいと思うのだろう。
 自分から積極的に知識を得ていかなければ、日本人は、日本の情報の中で、日本人ぽく生きることが正しいと思ってしまう。
 けれども本当は、世界は、たくさんの知識に溢れている。
ーーみんな、同じ世界に住んでる気がしてた。けど、全員違う世界のジューニン。
 考えているサオリは、後ろから肩を叩かれた。
「ご機嫌麗しゅう」
 松下和音だ。同じ音楽部で、トランペットを担当している。
「おはよ」
「雙葉生が突然、道の真ん中で立ち止まったから、誰かと思ったら沙織だったよ」
 一緒に学校に向かって歩く。
「まっちゃんが声かけてくれなかったらアタピ、後100年は道で立ちっぱなしだった」
「あはは。じゃあ、練習に遅刻しちゃうね」
 サオリは、人懐こい笑顔の素朴なマツシタと話しながら考えた。
ーーまっちゃんはどんな人生を生きてきて、どんな情報を知っていて、どんな価値観で生きてるんだろ。
 サオリが錬金術師だなんてことは知らない。でも、雙葉高校のことはよく知っている。同じ年齢、同じ性別、同じ地域に住んでいることも共通している。背も低いし、可愛い。部活もレギュラーだし、成績も良い。今の段階では、似ている点がたくさんある。
ーーでも、これから二年経てば卒業する。まっちゃんは素直だから、違う大学に行けば、そこの価値観に変わってくと思う。医者を目指してるから、八年後はもっと違う。アタピはアルキメスト目指してるから、きっとその頃には、お互いの価値観が全然違う。
 サオリは、今のこの時間が、とても大切なものに思えた。
ーーまっちゃん。
 サオリは、いつの間にか、マツシタと手を繋いでいた。
ーーわ。どしたんだろ? もしかして沙織、そっちの趣味でもあるのかな?
 マツシタは大人しいと思われている。だから誰にも言っていないが、BLや百合の創作物が好きだ。突然の手繋ぎに驚いたが、なんだか悪い気はしない。そっとサオリの手を握り返した。
ーーわ。
 サオリがマツシタに愛情を注いでいる間、マツシタもまた、サオリから、違う意味の愛情を感じていた。
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