第17話 控室(2) waiting room

文字数 2,794文字

 いつまでも喋らない静寂の時間が続く。ミサオは柔軟運動をしながら壁時計を見た。
ーーあと五分したら迎えがくるな。
 ミサオは先ほどのサオリを思い出していた。思い切りのよさ。キレのある動き。強くもあり、弱くもある、めまぐるしく変わる、精一杯な表情。
 女性経験はまあまあ多い。女優やアイドルとも付き合ったことがある。だが、今までに見たことがないタイプ。人間の知性と、動物としての原初。二つの高次元な位置での融合。これが美しいということなんだと、人生で初めて感じた。
 そして、目の前にいるサオリを覗き見する。パイプ椅子にちょこんと座っているお人形さん。意思のあるハッキリとした目線で、中空の一点をじっと見てめている。何を考えているのかが全くわからない。
ーーんー。
 ミサオは、何を言おうか考えがまとまっていない。こういう時に話してもいい結果は出ない。けれども試合の時間が近い。話せずに別れることだけは絶対に避けたい。せめて連絡先くらいは交換しておきたい。ミキオは、とりあえずサオリに話しかけることにした。
ーーサオリちゃん、て呼ぶのは馴れ馴れしいと嫌われそうでまだ不安だな。この子は堅そうだ。なんて呼ぼう。
 最初から名前では呼ばない。代わりに、まずは丁寧語も使わない。年齢もかなり離れているのだ。これなら問題はないだろう。
「怖かった?」
 ミキオは、準備運動をしているふりをしてたずねる。
ーーえっ! アタピ?
 サオリは我に返ったように背筋を伸ばし、自分を指差した。
「うん。サオリちゃん」
 ミサオは思わずサオリの名前を言ってしまった。だが、サオリは気にしなかった。ただ、自分の親指と人差し指の腹を強く押しつけ、片目を強くつぶった。ちょっとだけというサインだ。
ーーか、可愛い。
 運が良かった。この一言が嫌な気持ちにさせずに通ったということは、これ以降はサオリちゃんと名前で呼べる。
ーーびびってカトウさんて言わなくてよかったな。
 ミサオは興奮する気持ちを抑えながら続けた。
「サオリちゃん、すごい身軽だね。何かやってるの? 例えばパルクールとか」
「仙術」
「センジュツ?」
 ーー戦術? 占術? なにか新しい、例えば忍術の一種なのかな?
 ミサオはサオリを見た。何も言わなければこれ以上の説明はしてくれそうにない。
「センジュツってなに?」
「人間の能力の最大値を伸ばして、能力を最大限に使えるようにする訓練と技術」
「つまり……、スゴイやつってこと!」アカピルが叫ぶ。
 サオリは目立たない位置で親指を立てた。他の部分が動いていないので目立つ。
ーーそんなのがあったら誰だってやる。
 仙術の説明についてはよくわからなかった。だが、サオリの身体能力が、同世代同体型の女の子にしては格段に優れていることだけはわかる。嘘はついていないだろう。
ーー「俺も仙術やったらもっと強くなれるかな」とか言ってみようかな。「ミキオさんはもう十分強いじゃないですかー」とか言われちゃったりして。いや、そんな都合のいいこと、あっ。
 まもなく決勝戦の時間だ。ミサオは、水を飲んでおこうと紙コップを手に取った。
「サオリちゃん。これから俺は決勝戦に行くけど、落ち着くまでは、ここにいていいからね」
 サオリはうなづく。
ーーちゃんと会話が続いている。
 ミサオは浮かれて、つい調子に乗った言葉をこぼした。
「テレビ中継でも観ながら、俺が勝てるよう応援してて」
 サオリは首をふった。
「できません」
 今まで聞いたサオリの言葉の中で一番はっきりとした言葉だ。迷いもしない。日本人らしくぼやかした礼儀もない。サオリは完全に、ミサオにたいする応援を拒否した。ミサオは驚いた。
ーーなんで、そんな強烈に否定するんだ? 俺はこの子のことを助けてあげたよね? しかも、悪いことは喋らないように丁寧に接したよ?
 ミサオは、持っていた紙コップを落としそうになった。
「あ、あ、そ、そうか。そうだよね」
 はっきりと言い切ったサオリは、ミキオの様子を見てハッとした。
ーーあっ。ただ否定しちゃった。
「否定をする時は理由を言わなくてはならない」ママからの教えだ。
 サオリは、ただでさえ大きな瞳をさらに大きく開き、小さく口を開いた。
「アイちゃんの応援しなきゃいけないから」
「アイちゃん?」
「あ。フジワラノアイゼン。アタピの友達です」
 ミサオは驚いた。
ーーカリスマ女子高生の友達はカリスマ女子高生かよ。どおりでこんなに可愛いと思ったぜ。
 決勝戦の相手が友達だから応援できない。理由はわかった。だが、何の慰めにもならない。ただ傷口に塩をぬりたくられたようなものだった。
ーー俺はこの子のことを助けたし、こういう時くらい「両方とも応援します」とか優しい言葉を返してくれてもいいのに。
 ミサオは、理由を聞いても落胆しかけた。だが、むしろはっきり言い切るところがサオリの素晴らしさなのではないか、とも思い直した。そう考えると気が楽になる。
ーーうん。ここは大人らしく、「そうだね。じゃあアイゼンくんを応援してくれ」とでも返答しようかな。いや、それはいやらしいか。んー。俺はだいたい女の方から話しかけてくれてたからな。自分から行こうとすると、会話もうまくできない。こういう時の返し方はどうすればいいのだろう。ウイットに富んだ返答をして、サオリちゃんに好かれたいな。
 ミキオはもどかしかった。サオリは緑茶を飲んでいる。両手で紙コップをしっかりとつかみ、ぬくぬくとお茶の温かさに幸せを感じているようだ。
ーーなんだ俺。この子に夢中か?
 その時、控え室のドアが外からノックされた。ミキオは、自分がこれから剣道の試合をするということを思い出した。
「どうぞ」
 つとめて明るく振る舞う。ドアが開く。剣道着を着た、丸坊主の少年がやってきた。中学生だろうか。剣道連盟では、子供たちに大会運営を手伝わせている。健全なる児童の育成のためだ。少年は、試合上までの案内のためにやってきた。緊張している。目が輝いている。ミサオのことを尊敬しているようだ。
 少年は、三十メートル先にいるとでも勘違いしているかのような大声でミサオを呼んだ。
「桐生選手! お時間です!」
「おう。元気だな」
 ミキオは落ち着いたふりをして、爽やかに防具と竹刀をつかんだ。少年はドアを開けて待っている。
「それじゃ、行ってくるね」
 返事はないだろう。けれども、パイプ椅子の上で微動だにしないサオリに声をかける。
「……ばってください」
 サオリが下を向いたまま、小さな声を出した。
「え?」
 ミサオが聞き返す。サオリは、今度は大きな声で、ぶっきらぼうに言った。
「がんばってください」
 ありふれた言葉。だが、サオリの声帯を震わせながら聞こえてくるサオリの気持ちは、ミサオの胸にしみる。生気がみなぎる。体温が二度は上昇したように思える。ミサオは、いつの間にかサオリに頭を下げていた。
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