第9話 泥棒(1) Thief

文字数 1,560文字

 日本武道館の場内は、アリーナ、一階、二階とわかれており、アリーナの試合場を中心に、一階と二階の360度全てに階段状に客席が並んでいる。古代ローマのコロッセオのようだ。
 サオリは一階の場内に入り、客席を見回した。人人人。一万人くらいいるのだろうか。このほとんどが、アイゼンを今や遅しと待ち構えているのだ。
ーーうーん。圧巻。人ってたくさん集まると、それだけで迫力があるものだわねー。
 妙なところに感心していると、観客の一人に目が止まった。
ーーあれ?
 普通、観客として来ていたら、話に夢中になったり、トイレに行ったり、オペラグラスや軽食を買いに売店に向かったりと、何かしら決勝戦の観戦に向けての準備をしているはずだ。だが、目的もなさそうに場内の最上段をウロウロとしたり、たまに止まって辺りをうかがったり、何か一点をじっと見つめたりしているのだ。
 サオリはその男が気になった。黒い野球帽をかぶり、青のシャツを着た、体の大きい三十代の男。冷房対策なのか、右手にスタジアムジャンバーを持っている。アゴが突き出ている以外は格別目に止まることがない男だが、行動が怪しい。
 サオリは人混みの中でじっと見つめていたために、歩いてきた人に当たってしまった。
「あっ」
 細い金髪の白人は尻餅をついて倒れた。若い男だ。ウォーリーを探せのような赤と白のボーダーシャツを着ている。リーゼントのような髪型だ。鼻が大きい。優しそうな顔だ。
 サオリは慌てて手を伸ばした。はたから見たら全く慌てず、感情もなく手を伸ばしたようにみえるが、心中かなり焦っていた。
「ケガ、ない?」 「ありがとうベッピンさん。怪我はなかったでやんす」白人は明るく元気に、変な訛りの日本語を操った。
「ありがとうワッペンおじさん。ヒーッヒッヒ」ワッペンおじさんは白人の物真似をして嬉しそうだ。
 白人はサオリの手を引っ張って起き上がった。痩せているせいか、サオリの手には重さをほとんど感じない。若者は陽気な笑顔とおかしな訛りの日本語を残し、片手を挙げてロビーへ出ていった。
「サオリが人とぶつかるなんて珍しいね」ピョレットが不思議がる。
ーーうん。でも変なの。あの人、今は認識できるけど、さっきはいるっていう感覚がなかったんだよね。それと引っ張った感じがアタピより体重が軽かった。いくら痩せてるからって、アタピより二十センチくらい大きな男性がアタピより軽いってある?
 サオリは、ほとんどない自分のお腹の肉をつまんだ。
「うーん。もしかして、幽霊じゃね?」シロピルがお化けの真似をする。
「怖いよー」アオピルが震える。
「いやいや。他のことに気をとられ過ぎてたんでしょう」ピョレットは呆れ顔だ。
ーー気をとられるといえば。
 サオリは思い出して、さっきのアゴ男の行方を再び目で追った。
 アゴ男は動きながらも、じっと一点を見つめている。サオリも見てみると、席に茶色い革製のハンドバックが置いてあった。日本とはいえ、あまりにも不用心だ。
ーーあっ! もしかして……、置き引き……。
「人を見かけで判断しちゃ、ダメーーーーーーーーッッッッッ!!!!!」シロピルが手を大きくクロスさせる。
ーーまだそうだっていってる訳じゃないでしょ? あっ!
 ハンドバックの持ち主が背を向けた瞬間、アゴ男は素早く近づいた。駅の改札を通るかのようにハンドバッグをつかむ。男は自分の右手にかけていたスタジアムジャンバーの陰にハンドバッグをと隠し、何食わぬ顔で歩き去った。
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