第16話 控室(1) waiting room

文字数 2,331文字

 サオリは階段を下りながら、仙術、深淵なる老獅子の呼吸を繰り返した。ゆっくりとした深い腹式呼吸だ。徐々に落ち着いてくる。複雑な気持ちから解放され、邪念を考える余裕ができた。
ーーふー、たすか、たー。
 うつむきながらミサオの足を追う。
「大丈夫?」
 ミサオはますます強くサオリの肩を抱く。夏で暑苦しい。身長差もある。歩きづらい。
ーーじゃ、ま!
 もう安全圏に入ったので、サオリはミサオの手を押しのけた。
ーーすごく嫌がってんな。もう少し触っていたいけど、これ以上はさすがにセクハラと言われるか。
 学生時代のミサオならもっと強引だったが、今はもう警察官だ。ミサオは黙って手を離した。二人は無言で階段をおりる。
ーーこの人、次のアイちゃんの対戦相手かー。なんか自信満々。細身に見えるけど強そ。あと、自分のこと、すごく偉いと思てる。
「さおりー。惚れたのかー?」キーピルはいつも恋愛ごとにしようとする。
ーー全然。
 自信がある人は好きだけど、自分を偉いと思っている人は嫌いだ。
「助けてもらえてよかったなー」ミドピルは子供をあやすかのようだ。
ーーうん。そりゃ……、ありがたかった。
「あれー? サオリー? 桐生さんにお礼を言わなきゃいけないんじゃないのー?」シロピルはわざとらしい調子だ。
ーーうん……。でも……、恥ずかしい。
「それ、恋なんじゃない? ひゅーひゅー」
ーー違う。助けるつもりが……、助けられたのが……、悔しいだけ。
 上の階が一段と騒がしくなっている。サオリはミサオと共に、無言で階段を下りた。
ーーけどあの派手柄おじさん。もっと話したかたー。追ってきてくれればよかったのに。また会えるかなー。
「物事は自ら欲せずんば得られず。欲しいなら自分から行かなければ何も得られないぞ」モリピルだ。
「何それ、古語? その言葉、合ってんの?」ピョレットがツッコむ。
「しーらねっ」シロピルだ。
 まだピョーピルはワイワイしている。
 サオリたちは地下一階まで降りていった。
「こっちだよ」
 ミサオの手をふたたび避け、後をついていく。たくさんの関係者が忙しなく歩いており、ミサオに声をかけてくる。ミサオはそのひとつひとつをサラリとかわす。
 この階は殺風景で白い。大会本部や、倉庫や、選手控室など、たくさんの部屋が通路沿いにある。控室は大部屋で、外国招待選手用や、女性用などいくつもわかれている。だが、ミサオには専用の控室が割り当てられているようだ。全日本三連覇という偉業を考慮してのことだろう。
 控室のカギを開ける。無機質な白い壁。タイムスケジュールが貼られている。テレビの他に、折り畳み机とパイプ椅子が並んでいる。学校の家庭科室にあるようにシンプルな家具。奥には小さな洗面台もある。飲み物や軽いお菓子も置かれている。噂に聞くケータリングというやつだろう。
「お菓子! お菓子がある!!」ピョーピルは興奮していた。
 サオリは興奮をおさえ、なるべく感情が表に出ないことを心がけた。ただ、ハッピーターンだけは隙あらば食べよう、と思っていた。
 ミサオは、サオリの気持ちにはまったく気づかない。ただサオリを座らせて、温かい緑茶を注いでくれた。
「はい。どうぞ」
ーー苦い緑茶より梅昆布茶飲みたい。
 サオリは文句を言わなかった。
 お互いが全く喋らない。緑茶にも手をつけない。
 ミサオは決勝戦が近い。足首の運動をしながら話しかけた。
「えっと、俺のことは知ってるよね?」
 サオリはうなづいた。
「名前はなんていうの?」
「カトウサオリ」
 また静寂が続く。ミサオは気まずいと思っている。だが、サオリはどうとも思っていない。先ほどの派手柄おじさんのことを考えているからだ。脳内会議には、全ピョーピルとワッペンおじさんが参加している。
ーー今回の議題は、あのおじさんは一体何者なのか、についてです。
「うーん、でも明らかに、あの人はピルピルたちのことが見えてたよね」シロピルが首をかしげる。
ーー見えてるってことは、ピョーピルは実在するってこと?
「でも、あのおじさん以外の人には見えないんだよ?」アオピルが否定する。
「つまりつまり、不思議生物てこと?」キーピルは何もわかっていない。
「ひーっひっひっ」ワッペンおじさんだ。
ーー今から戻ったら派手柄おじさんに会えるかな?
「さすがにもういないでしょ」ピョレット。
「なんせこれからアイゼンの試合が始まるしな」ミドピルが同意する。
ーー試合見るのかなー。
「そりゃ見るでしょ!」アカピルが拳を振り回す。
ーーてことは、まだこの会場内にいるってことかなぁ。
「いるかもしれないけど、お客さん一万人入ってるんだよ」シロピルがアカピルの相手をしながら返答する。
「まるで砂浜で砂金を見つけるがごとき作業、さ」ミドピルが追加する。
ーー砂浜で砂金?
 サオリは考えてすぐに首をフった。
ーーや、や。そこまでじゃないでしょー。だって、あそこにいたてことは、一階のお客さんでしょ? それに、あれだけ派手なシャツを着てるし。
「サオリ、名探偵ー」アカピルが褒める。
ーーいや、それほどでもー。
「でも場内は冷房入ってるから、違う服を羽織ってるかもよ」シロピルだ。
「しかも顔を覚えてるの?」ピョレットが追撃する。
ーー覚えてない。けど、なーんかどっかで会ったような気もするんだよねー。
「また六歳の時に会ったのかねぇ」キーピルが呑気だ。
「てことは、やっぱ雅弘の友達なんじゃないの?」アカピルがシャドーボクシングを続けている。
「涙に濡れた瞳の奥では、どんな視界もぼやけてしか見えない」ミドピルだ。さっきサオリが半ベソかいていたことをからかっているのだ。
ーー泣いてないもん。
 サオリは、自分がミサオを完全に無視していることには気づいていなかった。
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