第28話 表彰式(4) Ceremony

文字数 1,868文字

 場内がざわつく。
ーーえっ? 何を言ってるんだ?
 ミサオはアイゼンを仰ぎ見た。アンザイも冗談だと思っている。
「ははは。突然の引退宣言ですね。冗談ですか?」
  アイゼンは意思ある声で返答する。
「いえ。冗談ではありません。この大会が始まる前から決めていました。モリタ名誉会長には、今朝お話をさせてもらっています」
 真剣な顔だ。アンザイの笑顔は固まった。観客は静まりかえっている。

 やがて、白紙に墨汁を垂らすかのように、ポツポツと悲痛な声。
「なんでー」
「やめないでー」
 声は増えていく。白紙は真っ黒に塗りつぶされた。

「まあまあまあ」
 アンザイは、こんな時こそ冷静にならねばと気を引き締めた。
「それでは理由を聞いてみましょう。なぜ引退するとおっしゃるのですか?」
 場内は再び静かになる。アイゼンは360度、観客席を見回した。
「私は若輩ながら、18年間、沢山の方々に支えられて生きてきました。みなさまのおかげで、こうして毎日、充実した日々を送ることができております」
「わー」
 観客は一度騒ぐとすぐに静かになる。さすがTPOを弁えている日本人たちだ。
「けれども今、私は人生の岐路に立っております。将来何をやりたいのか。どういう人間になりたいのか。私は真剣に考えました」
「アイちゃーん」
 アイゼンは手を挙げて答えた。
「このまま剣道界でみなさんに応援されながら、やがては世界にも剣道、武道の心を知ってもらう。これも素晴らしい人生だと思います。自分も楽しいでしょう。けれども、その人生では世界を平和にすることはできません」
「武道は世界を変えられるぞー」観客の声だ。アイゼンは答えた。
「音楽は世界を変える。スポーツは世界を変える。ずっと言われ続けている言葉です。そして、ある意味では正しいでしょう。けれども、いくら精神的にみなさんの心の支えになったとしても、世界で起きている紛争を止めることはできません。餓死していく子供たちや、薬に溺れていく子供たちを救うことはできません。私が優勝した今この瞬間にも、かわいそうな人々は死に続けています」
 会場は静まり返る。
「私は世界を平和にしたい。平和にするために、たくさん勉強をして、立派な政治家を目指したい。理想を口にするのではなく、現実を変えていきたい。そう思っております」
「お前ならなれるぞー」1人の観客の声を引き金に、次々と応援の声がアイゼンに降り注ぐ。
「ありがとうございます」
 アイゼンは深々とお辞儀をした。
「藤原選手は、引退したらどうなさるおつもりですか?」
 引退は止められないようだ。アンザイは、視聴者が聞きたいであろうことを考えて 質問した。
「はい。私には目標ができました。けれども、圧倒的に世界情勢にたいする知識が足りません。今すぐ政治家になったからといって、世界を圧倒的に変えられるだけの力を持ち合わせておりません。そこで私は、九月からアメリカの大学に留学し、世界のことを勉強することを決めました」
「両方やってー」観客が叫ぶ。
「私も本当は両方やりたいんですが……」アイゼンは笑顔を見せて続けた。
「剣道の世界は奥深く、尊敬すべき先達と切磋琢磨することは、人生においての最大の喜びでした。けれども、こうして一流の剣士の方々と試合をして再認識しました。対等に闘えるほどの練習をする時間は、これからの私の人生にはない、ということを」
「そうなったら再度、おいどんと試合してもらいたかです。やったら、次戦うたや勝つっかもしれん」ジュウゾウの言葉で会場が和む。
「勘弁してください。死んでしまいますよ」アイゼンは優しくツッコみ、また真面目な顔になった。
「このように優しい剣道界が、私は大好きです! けれども、政治家になるほどの勉強と両立できるほど出来た人間ではありません」
「そんなことないぞー」
 アイゼンは寂しそうな顔で笑う。
「私を剣士として応援してくださったみなさんの期待を裏切るのは本当に寂しいし、心苦しいと思います。けれどもその代わり、必ず良い政治家になると誓います! みなさんがいないと、私は何も出来ません。これからも変わらず、助言・応援・ご協力のほど、よろしくお願いいたします!」
「さみしいー」
「でも応援するぞー」
「住みやすい世の中を作ってくれー」
 観客は口々にアイゼンを褒め称えた。会場は完全なワンマンショーだ。こういう時に神話が生まれる。アイゼン一人に振りそそぐ幾筋ものスポットライトが、アイゼンを英雄として人々の脳裏に映し出している。この景色を、今日ここにいる観客は、生涯、忘れることがないだろう。
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