第12話 泥棒(4) Thief

文字数 2,260文字

「んだ? どけよ」
 立ちはだかった男は、背の高い青年だった。大学を卒業してすぐくらいだろうか。一見、細そうに見えるが、筋肉の詰まったしなやかな体つきだ。長めの茶髪で片目が隠れている。剣道着を着ているのに今時でオシャレだ。顔も薄味で整っている。
 アゴ男は青年に怒鳴ったが、青年は動じる様子がない。
「待ちなさい」と、サラサラの茶髪をかきあげた。
ーーなんか変なの来た。
 サオリは一瞬迷ったが、とりあえずこの青年に助けてもらおうと思った。
「この人、ハンドバックを盗んだのに返してくれない……」
「だから盗んでねーって言ってんだろーが! 因縁つけてくんじゃねーぞ、このガキ」
 アゴ男の声は更に大きくなる。
「あら、どうしたの?」
 野次馬の中から、育ちの悪そうなモデル崩れの女がしゃしゃり出てきた。口紅の色がやけに赤い。
「このガキが俺を泥棒扱いしやがるんだ」
「あら、大変ね」
 サオリはその瞬間を見た。アゴ男が抱えているスタジアムジャンバーの下から、モデル崩れの抱えているサマーコートの下へとハンドバッグが移動していく姿を。ずっとバッグを隠していた部分を目で追っていたサオリだからこそわかるような動作だ。他の人たちからは死角になっている。誰も気づかない。
「がんばってね」
 モデル崩れはそのまま、通りすがりの一人の振りをしてすたすたと去っていこうとした。
「待って!」
 サオリは叫んでモデル崩れを止めようとした。
 が、サオリの肩にアゴ男が腕をかぶせて引っ張る。
「いいからこっちこいよ。誰にでも因縁つけやがってこのガキが。こんな暗い所じゃなくて、外の明るいところで俺の荷物を全部見せてやるよ」
「今あの女の人にバック渡し」
 「うるせー! 来い!!
 アゴ男はサオリの声にかぶせるように怒声を発し、腕にいっそう力を加えた。
「ヒィッ!!」ピョーピルはみんな、しゃがんで頭を抱えて震え上がっている。
「その子をそれ以上いじめんなよ。男だろ?」
 青年は、自分が正義だという顔でアゴ男の手を引っ張る。見た目に反してかなり力が強い。周りの人たちは青年を応援している。青年は野次馬を味方につけながら、アゴ男とサオリを武道館の外へといざなおうとした。そこでじっくりと精査する予定だ。
ーーここで外へいったら負けだ。外にいっても証拠は出ない。女の人を捕まえなきゃバックも返ってこないし、アタピもただ騒いだだけになっちゃう。
 サオリはゴクリとつばを飲み込んだ。
ーー行くんだ。今を逃したら、二度とその機会はない。強引な行動なんてあまりしないし、ホントは嫌だけど、どうしてもやらざるをえない。今はその時なんだ!!
 サオリは体を動かそうとしたが、どうしても躊躇してしまう。口の中がカラカラになる。頭の中はやらないことにたいする言い訳で埋まっていく。
ーーアゴ男は大きいし、この状況で強くつかまれたら逃げ出せないかもしれない。バッグを渡したような気がするけど、見間違いだったかもしれない。この迷っている間に、モデル崩れが他の場所に隠したかもしれない。あの人が更に他の誰かに渡していたら、何の証拠も見つけられない。これから追いかけて、それで証拠が出なかったら、ただ暴れた女子高生というだけになっちゃう。そうなったらママに迷惑かかるし、アイちゃんとも更に差をつけられる。どうせアタピのバッグじゃないし、こんな危ない人と関わって、評判さげたり、変な恨みをもたれたりすんのバカらしい。もういいです、といって逃げてしまおうか。おばさんはどうせ他人なんだし、人ごみにまぎれて隠れて帰ればもう会うこともない。そうだ。その方がずっと楽……。
「が、がんばれ……」その時、ピョレットがおずおずと勇気を振り絞ってサオリを応援した。
 ピョーピル一匹一匹も立ち上がって、徐々にサオリを応援しだす。
「がーんばれ! がーんばれ!」その応援は大合唱に変わっていき、サオリの心を奮い立たせた。
 アカピルは変な踊りを踊りながら、どこから取り出したのやら旗まで振って応援してくれている。ワッペンおじさんも、いつもみたいな引き笑いではなく、笑顔でサオリを鼓舞している。
ーーよーし。やる! やるんだ!!
 サオリは深く息を吸った。集中して、アゴ男の力の動きを感じる。
ーー力が入った。今だ。
 吐くと同時に、肩に置かれたアゴ男の手を引っ張る。体を抜く。そのままヒジを押して、青年の胸に向かって突き飛ばす。本来なら肩を固めて相手を押し倒す技なのだが、サオリの大きさではそこまでする力はない。そもそも目的はアゴ男を制圧することではなく、モデル崩れからハンドバックを回収することなのだ。
 法律上は一般人扱いされている人間を押し飛ばす。これは過剰防衛に当たるかもしれない。もしも本当にハンドバッグが出てこないとしたら。
 選択は動き出した。元には戻れない。ハンドバッグを取り戻すか。自分の人生に傷をつけるか。結末はひとつだ。
 サオリはアゴ男を突き飛ばしたまま、モデル崩れが去った方角に目を向けた。
 二十メートル先だ。野次馬も集まって混雑しているが、サオリの軽身行なら問題ない。
「て、」
 アゴ男が何かを叫ぶ、サオリに手を伸ばす。だが、サオリは振り返らない。勢いつけ、躊躇なく、ロビーの窓の縁に駆け上がった。窓の縁は3メートルで途切れる。サオリは飛ぶ。ぶら下がっている「お手洗い」の標識を掴み、ロビーにいる観客の頭上を超える。さらに壁を二回蹴る。階段の手すりをつかむ。そこから一気に走り込む。サオリは、頭上からモデル崩れの目の前に降り立った。
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