第13話 泥棒(5) Thief

文字数 2,088文字

 モデル崩れは突然頭上から降ってきた女子高生に驚いた。気が狂ったように何かを話そうとする。だが、サオリに話を聞く気はない。スイッチはすでにオンになっている。証拠をとらないと、また終わらない言い争いが続くだけだから。
「話し合いはおしまい」ピョレットは大声を出す。
「これは戦争だ!」アカピルがサオリの髪の毛を片手で引っ張りながら、モデル崩れの右手を指差す。そのサマーコートの下には、ハンドバックが入っているのだ。
「キャ」
 最後まで叫ばせる暇も与えない。サオリはサマーコートをひっぺがした。モデル崩れはあまりの早業に呆気にとられた。が、すぐに気づき、むき出しのハンドバッグを後ろ手に隠した。もう遅い。間違いなくタマネギおばさんの高級感漂うハンドバッグだ。
「なにすんのよ! 痛いじゃない」
 モデル崩れの反射速度は遅い。フレーズを言い終わる間も与えない。サオリはすでにハンドバッグを取り上げていた。素人女性相手なら簡単だ。モデル崩れは、気づかないうちにハンドバッグをとられ、呆然としている。サオリはサマーコートを返す。
「へへーん。やってやりましたよっと」キーピルはシャドーボクシングをしながら得意そうだ。
「なんでこんなことすんだろ?」サオリの口から独り言が飛び出した。
ーーだって、ホントにわかんないんだもん。人のモノを盗むだなんて。この社会って、信頼関係で成り立ってるんじゃないの? お金って、人の役に立ったご褒美として手に入るモノじゃないの?
「金欲しいからに決まってんだろーぅ」先ほどまでついぞ姿の見えなかったシロピルが、ここぞとばかりに突っ込む。
「うむ。人の欲望というのは底のないものじゃで」モリピルの言葉にワッペンおじさんが訳知り顔でうなづく。
 しかし、モデル崩れの口から飛び出してきた返答は、とんでもないものだった。
「ちょっと! なにすんのよ! なに? 初めて会ったアタシにいきなり後ろから暴力? やめてくんない? ほら。早くコート返しなさいよ。警察呼ぶわよ」
 先ほどの落ち着いた明るい話口調とは真逆だ。狂ったように甲高い早口でまくしたてる。サオリの話なんて一ミリも聞いていない。ピョーピルたちは、一斉に耳を押さえた。サオリは耳を押さえたい気持ちよりも、むしろ唖然とする気持ちでいっぱいだった。
ーーあれ? なんか無理矢理で悪いことしたとは思うけど。でも、この人たちが盗まなければ、何も起こらなかったんじゃないの? なんで被害者面して怒ってんの? 証拠が見つかったんだよ? やったことを後悔すんならわかるけど……。怒ってる意味が全くわかんない。
 ハンドバッグを取り返せた喜びは束の間。サオリは、居心地の悪さで放心状態になる。口がぽかんと開いてしまう。
 人を押しのけるようにしてアゴ男もやってきた。来るなり叫ぶ。
「おい! どうした! てめ、俺の女になにしやがったんだ!!
「聞いてよ。こいつがいきなり殴り掛かってきて、アタシのコートを奪ったんだよぉ」
ーーえっ?
 モデル崩れは泣きながらアゴ男にすり寄った。
「なんなんだ、てめぇ! さっきから。気違いか!! ぶっとばすぞ!!!」
ーーこの人たち、自分がやったことを棚に上げてよくそんなことが言える……。しかも、一片の良心の呵責もないように堂々と……。  
 サオリはあきれると共に、空恐ろしくなってしまった。今まで自分の周りには一人もいなかった。完全に自分のことだけを考えて他人のことを考えないタイプ。これは人ではない。人は社会に生きて、協力し合っているからこそ人なのだ。この人たちは社会の中で擬態を使い、弱い獲物を狩っている肉食獣だ。「人は動物だ」という仙術の教えは文字では知っている。だがそれにしても、野生の人間は気味が悪い。
ーー油断したら噛み殺される。
 そう思わざるをえない。綺麗で純真無垢な自分の心に、汚い考えを思わせなくてはいけない。キレイな水に泥を入れられるような感覚。サオリは悲しくなった。無性に暗くて空虚な塊が胸に広がる。頬の内側にある涙腺を通って両目が熱くなるのを感じる。サオリはハンドバッグとサマーコートを持ちながら、直立不動で嗚咽を漏らして泣いていた。
「なんだてめぇ。泣いたからってすまされる問題じゃねーんだぞ」
「そうよ、ふざけんな!」
 アゴ男とモデル崩れの怒声が遠くかすんで聞こえる。野次馬達もやいのやいの言っている。
 人込みをかき分けて強烈な香水の匂いが漂ってきた。
「あーら、さっきの子。探したざますのよー。どーしたのー。こんな騒ぎになっちゃって」
 ド派手な服のタマネギおばさんが来た。異次元のような大声だ。空気を読まずに、騒ぎの真ん中に入ってくる。サオリは涙でぐちゃぐちゃになった顔でおばちゃんを見て、しゃっくりしながらハンドバックを差し出した。
「あーらまー。私のハンドバッグ!! 一取り返してくれたのーん?」
「このガキが盗んだんだよ。俺の女もコート盗まれてさ、今捕まえたってとこ」
 アゴ男が溜息をつきながら、親指でサオリを指差す。サオリは心の芯が全て折れ果てた。反論を言う気が失せていた。ただ涙だけがこぼれた。
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