第661話 死が二人を分かつまで
文字数 2,067文字
休日のシフトと言う事もあるが、何よりも鮫島主任が休みと言う事だ。
俺の1日のエンジンは鮫島主任との挨拶で始まる。それが無い限りはずっと、エンジンはキュルルルと空回りを続けるばかりだ。
しかし、悲しきかな。それでも仕事をしなければならないのが社会人。エンジンに火の入らない午前中でも人を乗せ、送りを繰り返すのがタクシードライバーのサガ。
こうして、鮫島主任と会えない日を迎える度にこう思うのだ。俺の人生に彼女は必要不可欠なのだ。
食事や飲みに誘っても、なんやかんやで、断られて家族を第一に考えて帰ってしまう鮫島主任。
新年度や忘年会の会社を上げての飲み会には参加するものの、二人きりで飲む機会は殆んど無い。
明らかに子供扱いをされている。だが……俺はその垣根を越えて見せる! 鮫島主任が駄目なら外堀から埋めるのだ! 確か娘さんが居たよなぁ。どうにかして会う機会を設け、頼れるお兄さんとして認識されれば協力してくれるかもしれない!
そんなこんなで明日は出勤する鮫島主任との会話に思いを馳せながらタクシーを拾いやすいポイントへ向かうと。
「――――!」
道の端で鮫島主任が手を上げてタクシーを求めていた。俺は幻覚かと思った。強すぎる想いが脳内で主任を想像したのかと。左折のウィンカーを立てて止まる。
「……主任ですか?」
「あら~沖合君~。丁度良かったわ~」
実在する鮫島主任だ! ラフな私服! 素晴らしいプロポーション! 買い物バッグがとてもイイ! 娘さんの為に食材でも買いに出たのだろう! 正に母!
なんたる偶然! これは……間違いなく運命だ! 完全に証明された。世界は俺と鮫島主任を祝福――
「知り合いか? セナ」
「ウチの会社のタクシーです~。ジョーさん~」
祝福……してるハズなのに、名前で呼び会うその老人は誰ですかっ!?
「タクシー会社の主任をやっとるのか。立派だな」
「そんな事は無いですよ~。本当に助けられてばかりの人生です~。娘の事も」
「娘が居るのか?」
「はい~。今年で高校生になりました~」
ジョーとセナを後部座席に乗せた沖合は、楽しそうに話す二人をチラチラと何度もバックミラーで見る。
このジイさん……主任とどんな関係だ? 父親……って感じの会話じゃないし、話の内容的に身内って感じもしない。うむむ……
「子は親を見て成長し、親は子を育て成長する」
「あら~私も成長を~?」
「人は多様性に長けた進化をした過程で多くの事が未完成な生物なのだ。特に年月を重ねた際に精神を成長させるのは子の存在と言える」
「忍耐的な意味でしょうか~?」
「それもある。特に育児は肉体的にも精神的にも大変だろう。ワシも四苦八苦したモノだ」
「ふふ。なんだか慌てるジョーさんは想像つきませんね~」
「妻が愛想の良いヤツでな。何度も助けられた」
なんじゃ、ジョー。情けない顔をしおって。うかか。子供の一人くらいポンと産めるのが女なんじゃよ。ほれ、ワシらの子じゃ。名前は……
「平和な将来に生きる……か」
ジョーは息子――将平の名前の意味を思い出し微笑む。そんな願いとは裏腹に将平は非日常な対人関係を築いたが、そこは血筋と言えよう。
「ふふ。家族の事ですか?」
「すまんな。話の途中で呆けた」
「いえいえ~。ジョーさんは奥様と、とても仲が良いんですね~」
「仲が良い……とは少し違うな」
ジョーは妻であるトキとの関係は、“仲が良い”とは思っていない。
「妻はワシの半身の様なモノだ」
「半身……」
セナは躊躇いなくそう口にするジョーに少し驚く。
「呪いかもしれんな。ワシらはどっちか片方が死ねば、残った片方は長くは生きないだろう。そう言う関係だ」
ジョー……ワシもお前が好きじゃ。けどな……好きだけじゃ……『神島』は越えられん。
「……素敵です」
「異常な関係だ。羨ましがられる事ではない」
「そんな事はありませんよ」
セナは察する。きっと彼はとても長い間、己の信じる道を歩いてきたのだろう。その過程で何を得て失ったのか……
多くの出会いと別れを望まぬ形で越えて、今ここでようやく、落ち着いて席に座っているのだと。
タクシーの運転手として、客と話した際に不快にさせないように会話の意図を探るセナの技量がジョーの生い立ちをその様に感じ取った。
「……」
聞き耳を立てていた沖合も、セナと同じくジョーからその様な雰囲気を感じ取る。
この人は……もう休むべきなのだと。
「セナ、お前の方はどうなのだ?」
「何がです~?」
「夫が居るのだろう? 不仲か?」
その会話に沖合は無言で反応する。
ナイスだ、ジィさん! 鮫島主任の“夫”の話は社内でも中々のミステリーなのだ。ソレを会話の流れから聞けるかもしれない!
「何でそう思うんですか~」
「指輪をつけておらんでな。お前ほどの容姿ならば着けておいた方が避けるヤツも多いだろう」
「あら~お上手ですね~」
ジョーの質問にセナは少しだけ神妙な顔つきになる。
「戸籍上、娘の親は私だけなんです」
セナは“彼”とは籍を入れていない事を告げた。