第487話 ぼっふ
文字数 2,017文字
オレの質問にアヤさんの雰囲気が変わった。穏やかで優しげな様子が一変し、核心を突かれた様な緊張感が感じられる。
小鳥達は歌を止め、動物達は彼女を心配そうに見上げる。
ドドドド、と滝の落ちる音だけが辺りに響く。
「……お元気です。今回のケンゴ様との婚姻も是非、と背中を押してくれたのですよ」
「アヤさん」
「公民館で振る舞ったお料理の味付けは、母のレシピなのです」
「アヤさん」
オレは真っ直ぐ彼女を見る。糾弾する様な眼でなく、何を言おうとも安心できる眼を彼女へ向ける。
「ですから、母はお元気です。何も心配事はありません」
「アヤさん。君の嘘は解りやすいよ」
「嘘……一体、何が嘘だと言うのですか!」
アヤさんは感情のままに声を荒げると立ち上がり、オレを睨んだ。しかし、それは真っ直ぐな怒りを宿す感情ではなく、どこか己に猜疑心を持つ様な瞳だ。
“純粋”な彼女の本質が嘘をつく事を拒絶するかのような意思。それは何に対しての怒りなのか。
表面上は怒っている様だが、なんとか積み上げたハリボテの様な感情に感じる。
「アヤさん。もういいんだ」
「な、何を……おっしゃって……いるのですか……」
オレは自分の吐いた言葉を曲げない。そうしなければアヤさんの過去はずっと終わらないからだ。
彼女の心と意思を護る“自己の殻”。
きっと、このままでも上手く行く。彼女はずっと上手くやるだろう。
驚いたり、恥ずかしがったり、狼狽えたり。
昨晩見せてくれたアヤさんの表情は偽り無い彼女の本心だ。しかし、それはきっと本当の感情じゃない。
心の奥底に存在する変えられない過去は彼女を永遠に縛りつけ、いずれ最悪の形で姿を現す。
オレがそうだから、その先で後悔する事も知っている――
「……ケンゴ様はその話をするために私をここお連れしたのですか?」
「ここなら話してくれると思ってね」
「……そこまでおっしゃるのでしたら……父から聞いたのでしょう? 私が……母に何をしたのかを――」
「ぼっふ」
その時、いつの間にか背後に居た『長老』がアヤさんを押した。人間みたいに直立してて片手で、とん。
え? と、オレとアヤさんは勿論、その場の動物達全てがそんな表情になる。完全に無警戒の所からの、ぼっふ(突き落とし)。
『長老』は、ふんす、と鼻を鳴らす。
「ちょ、長老ぉぉ!? 一体どうした!? なんつータイミングで、何てことをぉ!」
アヤさんは仰向けに滝壺へ落ちる。
何が理由かは解らない。けど……いや、きっと……私はこの場には相応しくない存在だと『長老』様は気がついたのだ。
水面に落ちた時に落下の衝撃はなかったけれど、水流が少し特殊なのか何もせずとも沈んで行く。
水流は対して強くなく、浮かび上がるのは問題ない。
音が消えて……水中から見上げる光はゆらゆらと不気味に歪んでいた。
冷たい……
それは、あの時と同じ。私が犯した罪に心の一部は凍りついた様にソレを忘れまいとした。
……御母様を……私のせいで――
“アヤ……お父さんをお願いね……”
私のせいだ……私が……余計な事をしなければ……御母様は……今も御父様と私に笑いかけてくれたハズだ。
“ダメ……ダメです! 御母様ぁ!”
「神様……」
口を開くと空気が漏れる。
もし……この場所を神様が見ていると言うのなら……何でも差し出します……
「どうか――」
身体は水底へ横たわり、私は手を歪む光に向かって差し出す。
私の命と引き替えに……おかあさんを……おとうさんの側に返してください……
「『長老』! マジで何やってんのさ!」
「ぼっふ」
「いや、ぼっふ、じゃなくて! 人を突き落とすなんて、非常識も良いところだよ!」
オレはアヤさんが落ちてすぐには飛び込まなかった。
深さ的には足はつかないものの、それでも少し沈めば水低を蹴って浮上するのは難しくない。あてもなく飛び込むよりも、アヤさんが顔を出してから助けに入った方が危険も少ないのだ。飛び込んだ時にアヤさんにぶつかる可能性もあるからね。
それにアヤさんの身体能力と判断力なら、着物を着ていてもすぐに水面に顔を出せる。そのタイミングで飛び込めば――
「…………出さ――ない!!?」
「ぼっふ」
もぉぉ! なんの、ぼっふ、なのよさ!
しかし……これはヤバいんじゃないか? 滝壺の水流は見た目ほど強くはないが……不意に飛び込んだ際に身体がびっくりして、心停止するなんて話を聞いた事がある。
人体の反射に近い事象だ。いくらハイスペックな身体能力を持つアヤさんでも成す術もなく――
「ヤベー! ヤベーよ! ヤベーって! 『長老』ぉ!」
「ぼっふ」
おっと、今のは何となく解ったぞ。お前、行ってこい、的なニュアンスの、ぼっふ、だ。
この熊ジジィ。もし、アヤさんに何かあったら害獣判定にしてベアーハンターズを引き連れて戻って来るからな!
オレは服を脱いでパンツ一丁になると滝壺へ飛び込む。