第545話 やなこった
文字数 2,069文字
「……失望したでしょう?」
ベッドに並んで座った彼女は眼を赤くして全てを話し終えるとそう呟いた。
「私が居なければ……少なくとも母は倒れる事は無かった」
「……」
「今も……父とミライは……母と一緒に食卓を囲っていたハズなの……」
聡明な彼女が未だに明確な答えが出せないのは、家族を愛しているからだ。しかし、近づけば今度こそ壊してしまう。その葛藤が余計に苦しめているのだろう。
「……」
「コウ君?」
俺は立ち上がると鞄から一枚の紙を取り出し、自分の名前を書く。そして、彼女にソレを差し出した。
「正直なところ、俺にお前を助ける言葉は出てこない」
「……でも……これって……」
「きっと、お前の中で多くの葛藤の末に今の状態なのだろう? お前が導き出せない言葉を俺は語る事が出来ない。だから書面に残す」
彼女は俺の言葉にソレを受け取る。
「それは契約書だ。俺はお前の側を離れる事も、二度と不安にはさせないと約束する。辛いときは必ず手の届く所に居ると言う証明だ」
「…………本当に……本当に……貴方って……不器用なのね」
それは彼女は涙を流しながら微笑んで渡した婚姻届を抱き締めた。
「……貴方らしいわ」
「まだ不安なら同棲でもするか? それなら少しは近くに――」
「なら、私の我が儘を聞いてくれる?」
彼女の提案は、入社し4課の課長としてのポストに就くと言うモノだった。
「……黒船正十郎の会社か……」
ふっはっは! と笑う彼の顔が眼に浮かぶ。
「やっぱり嫌?」
「…………………………………………わかった。席を設けてくれ」
「ありがとう、コウ君」
正直、黒船正十郎はいけ好かないが……彼女を近くで見守るのなら、これ以上に適したポストも無いと言うのも事実だった。
真鍋の運転する車は○○精神病院までナビ通りに進み、その間の二人の会話は無言だった。
それは気まずさからではなく、鬼灯の中で色々な事を整理しているのだと真鍋は察している。
「…………」
真鍋は師より、一歩踏み出す際に側に誰が居ることが大切なのかを学んだ。
不恰好でも良い、踏み出してすぐに転んでも良い。その時に絶対に側にいて手を差し伸べる。今の彼女には俺を含む、多くの者達との繋がりがある。
だから、その一歩は決して恐れるモノではないと知って欲しかった。
車は○○精神病院に着くと隣接する駐車場に止まる。
「詩織」
「……コウ君、ありがとう」
鬼灯は車から降りた。真鍋も共に降りて、鍵をかけると彼女と共に門へ向かう。
「入館希望です」
門の近くにある警備室に真鍋が声をかける。その間、鬼灯は病棟を見上げていた。
警備の人と少し話をした真鍋が戻ってくる。
「行こう」
「ええ……」
足取りは決して楽なモノではない。鬼灯にとってその一歩一歩は恐怖に向かう様なモノだった。
「大丈夫だ」
それでも、踵を返さなかったのは隣に真鍋が居たからである。
1号館のロビーに入ると受付で面会の手続きを行う。面会者の名前を書く為の名簿を渡されつつ、本日は後30分で退館ですが、と言われる横で鬼灯は――
“鬼灯未来”
“七海智人”
そう書かれている名前に鬼灯は自分の名前を書く手が止まる。
「…………」
「…………詩織。今日は時間も遅い。帰るか?」
「……ええ……ごめんなさい」
鬼灯からは言い出せない言葉を真鍋が代弁する。
真鍋は受付に断って、退館時間まで敷地内の外を歩かせてもらった。
「……」
「あそこのベンチに座るか」
真鍋に先導されて、鬼灯は2号館の連絡橋から見える位置に座った。
「……」
「……」
二人は無言だが、鬼灯の頭の中では葛藤が多く駆け巡り、ここまでしてくれた真鍋に申し訳無さを感じていた。
「ごめんなさい……私が意気地無いから……」
「気にするな」
「……お母さんに会いたいの……でも……また拒絶されたらって思うと……それに……」
鬼灯は顔を覆って考える。
妹が自分をどう思っているのか。恨んでいるだろうか? それとも軽蔑しているだろうか? どちらにせよ、二人と向き合う勇気を未だに持つことは出来なかった。
「お前は一歩踏み出した。次は一緒に会いに行こう」
「……うん……ありがとう……コウ君」
退館時間となり、二人はベンチを立つと歩き出した。
「父に聞いても、姉さんの事情は教えてくれなかったの。私は、私が幼いから、話せないのだと思っていたわ」
鬼灯は連絡橋の窓から外を見つつ、自分の心情の語る。
「父や姉にとって私はまだ庇護下にある子供だから、話せないのでしょうね」
「……」
それは俺も同じだ。
まだ子供だから。両親や姉貴は俺を護る為に行動している。そんな、家庭の環境が当たり前のように感じていた俺は……鬼灯がどれだけ、背伸びをしなければソレが“当たり前”になるのかを目の当たりにした。
「七海君。私と共に居れば“家族”の事が生涯ついて来る。だから……私とは友達で居ることをお勧めするわ」
俺を見てそう告げる鬼灯の口調は淡々としていたが、表情はとても哀しそうに感じた。
そんな彼女へ俺は考えるまでもなく、反射的に一つの言葉が出た。
「やなこった」