第287話 ……なぜ、私なんだ?
文字数 2,905文字
金属質な通路は段々とカーペットや塗装を施した壁などが現れ、いつの間にか客室のような通路を歩いていた。
「ここは来客用の区画だ。作業区とは分かれているので、基本的にはこちらを利用すると良い」
「……」
コツコツと歩く女郎花は背を向けて先頭を進む。その背中は有無を言わさずに着いてこさせる用なオーラがあった。
何も知らなければ尊敬の念も向ける事があっただろう。しかし、ショウコにとって、その背中は悪夢の一部でしかない。
ケンゴに結んでもらった三つ編みの先にある赤紐を握る。
「……なぜ、私なんだ?」
ショウコは女郎花の背に問う。
彼ほどの存在が彼女の事になると異常なほどの執拗さを見せている様を理解できなかった。
「私は貴方が思うような人間じゃない。少しばかり家庭環境が複雑な一般人だ」
「世界はまだ、君の価値に気づいていないだけだ」
女郎花は足を止めて確信めいた口調で続ける。
「私にとって世間とは薄汚い汚臭のする世界でしかない」
「……それは答えになっていない」
「この件に関しては私も明確な答えを導き出していないのだ」
意味が解らない。女郎花は理由もなく私を拉致したと言うのか?
「昔、事故で義父を失い、私も生死を彷徨った。それからだよ。この世の“汚臭”に気がついたのは」
女郎花は語る。二回家族を失ったこの世間は、どこもかしこも耐え難い汚臭が存在すると。
「誰も彼もがソレを撒き散らす。それでも義父が残してくれた研究と地位は守らねばならないと奔走したが……ある日限界が来たのだ」
それは、自分自身から漂い始めた“汚臭”だった。自分も奴らと同じ……いずれはソレにまみれてしまう。
「命を絶つしか救いはない。本気でそう思った時、君を見つけたのだ」
汚臭の中で虐められてる一人の女の子。原因は髪の色素が薄いと言う程度の低い理由だったが、女郎花にとってはそんな事はどうでもよかった。
止めろ! お前らの汚臭を彼女へ押し付けるな!
「私は君を助けたかった。だが、当時の君は私の考えを理解するには幼すぎたのだ」
ショウコが最後に求めたのは家族の元へ帰る事だった。女郎花は、汚物の元へショウコを帰す事に対して強く葛藤した。
しかし、彼女は幼く、何も理解していない。突発的な行動であったこともあり、確実にショウコを護るための準備をすることにしたのだ。
そして、迎えに来ると言い残し、警察に匿名で彼女の居所を通報したのである。
「時が経てばどうなるか。君も世界の汚臭に呑まれるのならば諦めはついただろう」
だが、違った。女郎花が次にショウコの事が眼に入ったのは、演舞をしている彼女を見た時だった。
それはショウコの初めての舞台。
周囲が汚臭にまみれていても、それを寄せ付けない光を彼女は纏っていた。
「間も無く世界が君の価値に気がつく。そうなれば、君も私のように汚臭を擦り付けられてしまうだろう」
彼女を自分のようにしてはならない。女郎花はこの輝きを護ることが使命なのだと感じていた。
「……貴方はまともではない」
「そうなのかもしれない。だが、理性はあるつもりだ。その証拠に君には指一つ触れる気はない」
自身の汚臭を彼女へ移すわけにはいかない。女郎花はそれだけは徹底していた。
すると、目の前で横の扉が開く。
「ん? おお! Mr.オミナエ!」
出てきたのは小太りの中年イタリア人の男だった。片手に酒を持ち、少しばかり酔っている。
「ルドル伯。間も無くヨーロッパへ帰還しますが、あまり飲まれると船酔いが辛いですよ?」
「ハハハ。わかっていても止められぬモノだ。特にこの『神ノ島』と言う地酒は素晴らしいな!」
「それは荷物の中でも特にシークレットな荷の中に入っていた物だったハズですが?」
「なに固いことを言うな! 長い船旅でストレスが溜まっておるのだ! 『ラクシャス』の平穏はワシらのような支配階級の存在があってこそだろう? メンタルケアは特に必要な事だ」
ルドル伯は『ラクシャス』の制圧を強く押していた勢力の一派だった。終戦となった今でも、レアメタルの分配を少しでも多く得る為に、何かと女郎花の行く先に現れるのである。
「……ですが、その地酒は買い取ってもらいます。なにぶん、貴重なものですので」
「ハッハッハ、構わんよ! 君も後で飲むかね? ワシのおごりだ!」
呆れつつも、社交関係として女郎花は嘆息を吐くに止める。
男は手に持つ酒をその場で飲むと、女郎花の後ろに居るショウコに気がついた。
「ほう……見ない顔だな」
そして、上から下までショウコの容姿を見る。多方面からも美人と見られるショウコは、ルドルからすれば格好の的だった。
「よし! お前はワシに付き合うのだ! 一人で飲むのも飽きてきたところでな! 色々と世話をして貰うぞ!」
「……」
下卑な視線を向けられてショウコは心底嫌気を示す。
すると、伸ばしてくるルドルの手を女郎花が掴み止めた。
「ルドル伯。彼女は召使いでも無ければ売り物でもありません」
「Mr.オミナエ……貴様! ワシの行動を止める意味がわかっているのか!? また、『ラクシャス』を戦場にしたいのか!?」
女郎花は掴み止めた手に力を入れるとルドルを無理やり座らせる様に痛みを与える。
「ここはホテルでも無ければ娼館でもありません。どうしても己が欲を満たしたいのなら日本で降りて行かれると良いでしょう。ルドル伯はお忍びで急に乗り込んできてパスポートを持っていません。強制送還と言う不名誉な形での帰還となりますが」
「痛だだだ!!」
女郎花は手を離し、座り込んだルドルを見下ろす。その眼はこの場で殺すことをいとわない程の殺意を含んでいた。
「航路は後一度です。その間に彼女に何かしましたら、祖国へは帰れないでしょう」
「お、脅す気か! このワシを!」
「そう捉えるのならそれでも結構。それと、貴方の国への『レアメタル』の分配は少し考えさせてもらいます」
「! 待て!」
「誰かいるか?」
女郎花はイヤホンマイクで通信すると、直ぐに部下が駆けつけた。
「どうなされました?」
「ルドル伯は酷く酔っておられる。酔いが覚めるまで、コンテナの中で過ごして貰え」
「ハッ!」
部下二人はルドルを拘束するように抱え上げる。
「オミナエ! 貴様! この仕打ちは高くつくぞ!」
「貴方の国では『ラクシャス』への強行手段を良く思わない一派が貴方の失脚の準備を進めています。最後の船旅は随分と窮屈な事になりましたな」
「な! 知らんぞ! 嘘をつくな! ワシはそんな話しは知らん!」
「国に着けばわかります。お前たち、さっさと
ワシは知らんぞー! とルドルは最後まで叫んでいたが、それも聞こえなくなった。
「あの男の“汚臭”は特に酷い。だが、二度と君の視界に入る事はないと約束しよう」
そう言って女郎花は何事も無かったかのように歩き出す。
ショウコからすれば今の行動がどれ程の意味を持っているのか不明であるが、少なくともこの船では女郎花が絶対である事だけは確かだった。
「ここが君の部屋だ」
女郎花は区画でも一番奥にある広い部屋の扉を開いた。