第542話 私を恨んでいるでしょうね
文字数 3,005文字
社員旅行の最終日にて、駅にて解散となる面々に鬼灯は自身のキャリーケースを受け取り、皆に挨拶した。
「うむ、また明日! 鬼灯君!」
一際大きい社長の黒船の声と、また明日ー、と手を振る同僚と、ご苦労様です、と後輩陣に、今後もよろしくお願いします、と他社からの参加者達からもその様に別れの挨拶をされて、笑顔で手を振ってその場を後にする。
「詩織」
駅に入った所で真鍋が追い付いて来た。
「家まで送ろう」
「そう? なら、甘えちゃおうかしら」
電車で帰る予定を変えて、真鍋の送迎に頼る事にした。
『不審者に注意!』
『忍者を見かけたら110番!』
などと、煌びやかなイルミネーションには不釣り合いな張り紙を視界にちらほら捉えつつ、駅構内を抜けて駐車場へ向かう。
「昨日の夜のこと気にしてくれてるの?」
「……少しは俺を頼れ」
「……時間があると考えてしまうの。悩みは誰だってあるでしょう? だから気にしないで」
「便宜上でも俺はお前の夫なのだから、気にするなと言う方が無理な話だ」
「…………」
鬼灯は返す言葉を失ったが、不安になったからではない。寧ろ安心したからこそ、これ以上は口にする事が無かったのだ。
「不思議なものね。一つの契約書で、他人と他人が夫婦として世間に認められるなんて」
「人は社会に対して己の責任を明確にしなければならない。それが己自身を守る事にもつながる」
「じゃあ、コウ君は私との関係に責任を感じてる?」
車に着くとトランクを開ける真鍋に鬼灯は荷物を渡す。
「ああ。それを抱えられるくらいの器量はあるつもりだ」
「一生?」
「当然だろう? そうじゃ無ければ、お前と名前を書いて婚姻届など出さん」
荷物を積み込み、バタン、とトランクを閉める真鍋はいつもの様子でそう答える。
そして、運転席に座ると鬼灯も助手席に乗る。
「……まだ、皆に言う勇気が無いの。全部変わってしまうのではないかって思っちゃって」
「七海課長に轟秘書、後知っているは――」
「父とコウ君だけ。母は……わからないわ。ミライは……」
母にも自身の事は告白した。しかし、その結果……全て壊れてしまったのだ。
私が母を壊してしまった事で……妹はきっと――
「私を恨んでいるでしょうね」
「……」
真鍋はエンジンかけ、ナビを着けると行き先を入力する。行き先は『○○精神病院』と表示された――
「……コウ君。なんでこの場所を?」
「責任を負うと言っただろう? 何度か梨乃さんと面会した」
「……お母さんと?」
“聖君。
「梨乃さんはお前に伝えたい事があるそうだ」
真鍋は梨乃から言われた事を自分の口から言うつもりはなかった。何故なら二人はまだ生きていて、話し合う事が出来るからだ。
「まだ、今日の面会時間には間に合うハズだ」
「……」
鬼灯の無言を真鍋は否定ではないと解釈し、車をナビが表示する目的地へと走らせた。
「とてもデリケートな事よ。書類で確認する形の方がいいと私は思っているのだけれど……」
私は春休みに母と共に診察室で先生と向かい合っていた。
1ヶ月程前に両親に相談し私の身に起こっている事を病院で調べてもらった。その結果を口頭で聞く為だ。
「いえ……この事はキチンと正面から受け止めなければいけないのです。私もこの子も覚悟して来ました。どの様な結果でも、受け入れるつもりです」
「先生、お願いします」
「……」
先生は、昔から定期的に検査する母の担当女医で、信頼に値する人物だった。故に最後まで気づかってくれていたのだ。
「……鬼灯詩織さん。貴女は『原発性無月経』です」
18歳になっても私には一度も生理が来なかった。本来なら15歳になった時にするべき検査を18歳まで引き延ばしたのは、信じたくなかったからだ。
「……そう……ですか」
母は深く落胆する。私は母の代わりに質問した。
「……先生、治療法はあるのですか?」
「詩織さんは私生活が安定しているし、家族仲、交友関係も良好で、学校生活でも負を感じている様子は無いわ。そして、身体は健康そのもの。故に原因はわからないの」
先生は『原発性無月経』は、ストレスによってホルモンバランスが乱れると起こる事だと丁寧に説明してくれた。
だからこそ、現状に否が何もない私に生理が来ない理由がまったくわからないらしい。そして、今のままでは将来、子を成す事が難しいと言うことも。
「……先生――」
「詩織」
信じたくない私は質問を続けようとするが、母が優しくそれを制した。
「帰って、お父さんと相談しましょう」
「……うん」
詳しい治療法などの説明は後日として、診断結果をもらって私と母は帰路に着く。
バスを降りて、家が見える所まで無言だった。
「……」
帰り道では私の頭の中は不安でいっぱいだった。今までは不安に思うことは全部理解し解決出来ていた。しかし、今回は……
「大丈夫よ、詩織。貴女は何も悪くないもの。寧ろ、完璧過ぎて神様が少し悪戯したのかもしれないわ」
母はそう言って微笑む。その笑顔に私の不安はどこかへ吹き飛んだ。
今までが出来すぎていたのかも知れない。そう考えると、ほんの少しの不幸は釣り合いがとれているのだと思えた。それに家族も居てくれる。
「……ごめんね、詩織」
「どうしたの? 急に謝って」
「お母さんが健全じゃないから、貴女も不安にさせたわ。母親失格ね」
「そんな事はないよ! お母さんは私にとって――」
その時、母の動きが停止した。それは、母の持つ『短期記憶障害』が起こった時の合図どの様なモノだった。
「……詩織? ここは……?」
母は私と自身の手に抱えている今日の診断結果を見る。
「ああ……そうなの。また、失ったのね」
「お母さん、どこまで覚えてる?」
「そうね。昨日は……お父さんが締め切り作業を徹夜でやってたかしら」
母のその発言を聞いて、私は少し困惑した。それは1ヶ月前に父の仕事の締め切りで、てんやわんやした事態だった。
母の記憶がひと月も消えた。こんなことは今まで一度も起こらなかった事態だ。
「あら? これは何?」
手に持つ診断結果を母は自分のモノだと思った様だ。記憶を失った時はその場で手荷物を全て確認するのは少しでも状況を理解する為の行動だ。
封筒から診断書を取り出して母は見る。
「お母さん――」
「――――詩織」
簡単に診断書を読んだ母は私を見た。
「何故なの詩織! 貴女は完璧だったのに! こんな欠陥を――」
この一ヶ月間、共に悩んで、そして意を決して結果へ赴いた時の“記憶”を母は全て失った。
母にとっての現状は唐突に事実を突き付けられたのと同じだった。
しかし、それ以上に私は、母の“欠陥”と言う言葉にショックを受けて何も言えずに佇んでしまった。
「どうした? 二人とも」
家の前で母が声を荒げた様子に父が出てくる。その瞬間、母は意識を失う様に倒れた。
「! 梨乃!」
「あ……お母さん……」
「詩織! 救急車を呼びなさい!」
私は母が倒れた時に咄嗟に駆け寄る事が出来なかった。そして、救急車が来るまで事の全てを父に話し、家を出ていく事を告げた。
母の為ではない。ただ……私は逃げ出したのだ。
大好きな母からあの様な言葉を向けられて父と妹からもそう言われる事を何よりも恐れて。