第303話 麺つゆもどうぞ!
文字数 2,553文字
「スマホで調べただけですよ」
「轟さん。その手間をスムーズに行えたからこそ、我々は時間通りに食事を取れているのです。おかげで後の予定に狂いは生じません」
三人が居るのは少し古びた外見の穴場のような麺食屋だった。お客さんは三人を除いて一人。後から入ってきて、ラーメンを食べている。
店主の老人は若干、耳が遠かったが、黒船の声量ならば注文は問題なかった。
「自分達でやるとなると、どうしてもドタバタするからね!」
「お二人とも大袈裟です」
と言いつつも轟は嬉しそうに自分の食事を進める。
名倉は新入社員の頃の轟を知っているが、彼女がここまで明るかった印象はなかった。
「轟さんは社長の側に必須ですね」
「名倉君……それは当然の事だよ! 彼女が居なければ明日の予定もわからんと言う体裁だ! マズイとは思っているが! 同時に、別にいっか、と思っている私も居る! さて甘奈君! 君はどっちが良い!? 今日も腕枕が必要かね!?」
「お、お水! お水持ってきます!」
「良いウォーターを頼むよ!」
ぴゃー、と逃げるようにセルフの給水へ席を外す轟に黒船はふっはっは、と笑う。
「社長。一つ、お聞きしたいのですが」
「なんだい?」
もぐもぐと冷やしうどんを食べながら黒船は名倉を見る。
「轟さんを秘書に取り立てた理由。それは火防議員の御子女とわかっての事ですか?」
名倉は今も政界に伝がある。轟が入社した時に火防の娘である事はすぐにわかった。
「当時はその様な打算もあった。しかし、彼女と接して解ったのだ」
黒船は当時を思い出す様に語る。
「甘奈君は甘奈君なのだと。そして、その様な打算を僅かにも抱いた自分が恥ずかしいとね」
「その事を彼女には――」
「話してあるよ。私は彼女には隠し事はしないと決めている」
少し古い給水器に苦戦している轟を黒船は微笑ましく視線を送る。
“七海、名倉、獅子堂、会社を頼む”
前社長である、黒船の父からそう託された名倉は2課の課長となった今でも、社全体の事も考えている。前社長から受けた恩に報いる為に。
「長い付き合いになりそうですね」
「私と甘奈君の間には埋めなければならない事が多い。全てが埋まったら、式を挙げようかな!」
「今から楽しみにしておきます」
「海外で挙げよう! 招待客全員をポケットマネーで飛行機に乗せようか!」
「懐は暖かいようですね」
「宝くじに当たってね! 甘奈君の言った数字で10億だよ! 10億! おかげで海外支部の安定と社員旅行は随分と上手く行った! まだ8億程残っているが……あ! 黙っててくれたまえ!」
「2課にコーヒーサーバーの設置で手を打ちましょう」
「甘奈君に相談して良い?」
「存分に話し合って下さい」
「オーケー!」
すると、二人の席に店内に居る一人の男がゆらりと立ち上がった。
眼鏡をかけ、二の腕は鍛えた様に太く傷が多い。
店主の老人はイヤホンで競馬を聞いていた。かなりの佳境の様子。
「おや? 聞こえてしまったかな? お客さん! 8億は渡さんよ!」
「社長――」
男が動く。ポケットから銀色に光るナイフを取り出すと名倉へ――
「お二人ともお水です――キャッ!?」
突き刺す前に、転んだ轟の手から離れた水入りのコップが男の顔面に直撃した。
マーク・レイヤー。
彼は女郎花が『ラクシャス』で最初に護衛として雇った者で、後に側近者に取り立てた人間だった。
元、特殊部隊員であり、その実力は側近者の中でもトップ。
カーシャが事務的な補佐を引き受ける女郎花の右腕ならば、マークはあらゆる所で女郎花を警護する左腕の様な存在である。
女郎花に近づく暗殺者を裏で何人も返り討ちにしており、それらは全て悟られぬ内に処理する程の実力者でもあった。
今回も女郎花の指示により、名倉の見張りと指示があれば殺害を行使する事を言い渡されている。
「……」
「あぁ!!? ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
マークは頭を何度も下げる轟を睨む様に見る。
彼が嫌いな人間はドジな女と、
「すまない! お客さん! 悪気はないのだ! クリーニング代は出そう! なんなら新しい服を買うと良い! 10万くらいで手打ちにしてくれないかな! 甘奈君には言っておくから!」
声のデカイ男だった。
「奢るよ!」
それでも女郎花の指示を優先し名倉へナイフを向けた瞬間、黒船は自分の冷やしうどんを掬い上げて妨害する様にマークへ投げつける。
「轟さん」
「ごめんな――ふぇ?」
それと同時に名倉は立ち上がると轟を庇うように席を離れる。
マークは妨害に怯むこと無く名倉への視線を外さない。
「麺つゆもどうぞ!」
黒船が更にバシャッ! つゆをマークへ投げかけつつ、席から立ち上がる。
「……」
麺つゆで更に濡れたマークはまずは妨害の排除に優先を切り替える。諸手のナイフを黒船へ突き出す。
黒船は脇を開けてかわすと、その腕を抱える様に拘束しマークに頭突きを見舞った。
「っ……」
マークは怯みつつも空いた手で黒船へ殴りかかる。だが次の瞬間、強制的に膝立ちの姿勢にさせられる。
「なんちゃって合気道をやっててよかった!」
この瞬間、マークは悟った。この状況から逆転する方法は存在しないと。
黒船の強力な膝蹴りがマークの眼鏡を破壊し、顔面を凹ませる程の威力を持って叩きつけられる。
「『イマジリー』かな? それとも『ゼルム教団』? 『ナックラ』の可能性もあるかい? どの組織でも無いなら、ごめんね!」
ずるっ……と気を失ったマークの手からナイフが落ちる。
ほんの1分足らずの出来事であるが、黒船も名倉も特に慌てる様子無く、少し乱れたスーツを整えた。
「え? え? え?」
轟だけは現状に困惑し、理解が追い付かずマークと黒船を交互に見る。
「ナイスウォーターアタックだったよ、甘奈君! 相変わらず、君の補佐は完璧だね!」
「え? え? え? あ、ありがとうございます……」
「110番だ!」
「は、はい!」
黒船はナイフを拾い上げて近くのテーブルに置き、轟はスマホから警察へ連絡を入れる。
「……ショウコ。決めたのだね」
名倉はこの襲撃で、娘はようやく悪夢から抜け出せたのだと優しく笑った。