第64話

文字数 1,055文字

「おお、怖い。剣呑だねえ。まだなぁんにもしてないじゃないか」
 紅霧は真っ赤に濡れた唇を横に大きく引き伸ばし、面白そうに言いました。黒いワンピースの襟は、大きく開いたオフショルダーで、白い首筋と鎖骨がのぞいています。紅霧はエンジェルトランペットという花のように広がった袖口で口元をかくし、クスクスと笑うと、「今日は面白い物も見られたし、私はこれで退散することにするよ」というと、一瞬で影に戻り窓からするりと出て行きました。瞬間、裾がひるがえり、ワンピースの中に着ている赤いペチコートが闇に揺れて、影に消えました。

「浅葱先生!」

 一来の声で、皆の方に向き直ると、一来と稜佳が足音をたてて男性教師に駆け寄っているところでした。

「大丈夫ですか?」

 とうとう腹を押さえてうずくまってしまった教師の側に、稜佳が座りこみます。
 モンスターママは、ジリジリと後ずさりすると「じゃあ、私はこれで……」と口の中でもごもごと言って、小走りに去ってしまいました。男性教師の急な体調不良が、自分のせいだと非難されるのを恐れたのでしょう。

 「先生! 先生っ……!」

 一来が呼びかけると、浅葱先生は顔を上げましたが、血の気のない顔色なのに、額に汗がにじんでいました。

 「大丈夫だ。 さあ、帰ってチイにご飯をやらないと」

 浅葱先生は力のない声を絞り出しました。

 「チイって、誰ですか? お子さんいらっしゃいましたっけ? あ、じゃあ家に電話して迎えに来てもらったら」

 一来は浅葱先生に早口で話しかけながら、いつの間に取り出したのか、手に持ったスマートフォンを起動させました。

 「先生、家か奥さんのスマホの番号、言ってください」
 「一人暮らしだから……」
 「えっ?! じゃあチイっていうのは」
 「……リクガメ。飼っているカメの名前なんだ」

 思わず吹きだしたマスターを無視して、「じゃあ、送っていきますね」と一来はスマートフォンを鞄にしまいました。浅葱先生はなんとか立ち上がると、首を振りました。小刻みに震えている手で、ズレた銀縁の眼鏡を押さえて直し、何度か息を大きくつくと一来の肩を二回叩きました。

「少し休めば大丈夫だから。君たちはもう帰りなさい。もう最終下校時刻、とっくに過ぎているだろう」

一来と稜佳が何か言おうとするのを手で制し、大丈夫、と示すように、職員室へゆっくりと歩いて行きました。細い肩が歩くたびに左右に揺れています。体を真っすぐに保つ力も残っていないのでしょう。

「先生、痩せたみたい……」稜佳の声が暗い廊下に吸い込まれていきました。
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