第80話

文字数 1,159文字

 『おや、もう教師をお辞めになるのですか?』

 私はステージに立つ三人に目を向けました。浅葱先生も私の視線を追いかけて、ステージで歌うマスターを、ギターを弾く稜佳を、ドラムを叩く一来を見ました。

 浅葱先生は苦しげに顔をゆがめ、「教師を辞める、その方があの子たちのためにもいいんだろうか……」と、声を絞り出しました。

『生徒のためにいいかどうかは、分かりませんが、辞めるか辞めないかは、浅葱先生の選択肢です。どちらでも選べますよ』

 浅葱先生は懐かしいアルバムの写真でも眺めるような優しい目でステージを見つめています。穏やかな表情ですが……、その目の中に揺らいでいた炎は消えてしまったのでしょうか? 身体中で歌声を響かせるマスターを見ていたら、つい私らしくもない言葉を続けてしまいました。

『ですが、影と交代してでも生徒を脅かすものと戦いたい、そう思ったのではないですか?』
 浅葱先生は唇をギュっと噛みしめました。

「影になっても……、私のせいで加工された画像が流れてしまった……。私は、あの子達を守れなかった……」

 浅葱先生の背中が丸くなり、背が小さくなる。瞼をなんどもしばたく。後悔なのか無力さへの絶望なのか……? 判別がつかない。 人間には色々な感情があるものだ、と感心してしまう。

『私は影ですから、浅葱先生の苦悩はわかりません。……が、私の友人ならば、こういうでしょうね。いつも正しく完全な人間なんかいない。だけど自分が思う方向に手を伸ばし、歩いていくことは出来る、と』借り物の言葉が、どれだけの効果を持つものなのでしょうか? 浅葱先生の表情は分かりにくい……。

 ステージの上では、一来が私の教えたとおりに、ヘッドバンギングしながらスティックを振っていました。普段は仏像のように穏やかな顔が、まるで仁王像のように変貌しています。

――演技が出来ない彼の事だから、顔の通りの心境なのでしょうね――

 ふっと頬が緩みました。一来はこんな時でも面白い。

『二十年後に会いに行く、と消しゴムには書いてあったのですよね。二十年。それは赤ちゃんが大人になる位の時間ですね。つまり生まれたての教師のあなたに、生徒は祝福を与えてくれたのではないですか? 今はまだせいぜい中学生位だと思いますが、浅葱先生は中学生に向かって、成熟した大人であれと求めるのですか?』

 ステージを指差す。未熟かもしれない、しかしひたむきに出来ることをしている仁王像のような一来の姿は、どんな言葉よりも雄弁です。そしてマスターと稜佳の心は、音楽と共に会場を自由に力強く駆けめぐっていました。

『心配も後悔もいらないのではないですか?』

 浅葱先生がステージに向かってコクリと小さく頷きました。

『さて、モンスターママがこちらに歩いてきましたよ。浅葱先生の戦場は、どこですか?』
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