第176話
文字数 1,151文字
「それで……、コロッケを一緒に食べることになって」
「私もコロッケ、食べたかった」
マスターが小さな声で文句を言いました。しかし一来には聞こえなかったようで、話を続けました。
「コロッケを手渡そうとしたら、腕をつかまれて引っ張って行かれたんだ。力が強くて、とても振り払えなかった」
その時の事を思い出したのか、うつむいてイヤイヤするように首を振ります。
「路地裏みたいなところに連れて行かれて、黒の鏡を見せられた。黒の鏡の中には、本体の冬矢先輩がいたんだけど、多分、すでに精命が限界近くまで流れ出てしまったらしく、瀕死の状態だったんだ」
「瀕死? 大丈夫だったの?」
「見ただけで、ヤバイってこと、分かるもんなんだね。冬矢先輩、うつろな目で倒れてて。口からよだれが垂れてた。何も感じていないような状態なのに、目からは涙が細く絶え間なくこぼれているんだ。拭きもせずに涙が流れ続けたせいで、目尻のあたりの涙の通り道が赤くただれていた」そこでひと呼吸おいて、静かに続けました。
「それでもう鏡に血を提供しないって言う約束、破ってしまった。その時、稜佳ちゃんから電話が来たんだけど、なんて言っていいのか分からなくて、切っちゃったんだ……ごめん」
「仕方ないよ、見殺しになんて出来ないし」稜佳が首を振りました。
「だからって、自分がこんなになるまで血をあげることないじゃないっ!」
マスターが一来の頬を両手で挟み下を向けないように固定し、顔を近づけて瞳を覗き込みました。一来はマスターを見つめ返したが、その見開いた目に、みるみるうちに涙が盛り上がりました。
「ご、めん……」
突然の涙に驚いたマスターは、反射的に一来の頬から手を引きました。そして転がっていたティッシュボックスを引き寄せると、数枚引き抜いて一来の顔に押し当てました。涙がティッシュに吸い込まれて消えたかわりに、今度は瞳に浮かぶ苦痛があらわになり、そして一来は、喉から声を絞り出すように言いました。
「マミを……、死なせてしまったんだ」
その場の誰もが時間を奪われたように、動きを止めました。もしかしたら心さえも動くことを拒否していたのかもしれません。エアコンが動いている音と、近くの道路を走っていく車の音だけが響きます。
一来の話を嘘だと疑って望みをかけることは無駄だと、その場の誰もがわかっていました。マミが生きていることを誰よりも願ったはずの一来が、マミは死んだと言ったのですから。そして悲しみを口にすれば、一来を責めることになることも知っていました。そして何よりも、自分の胸の中で暴れ回る感情を抑え込むので精一杯だったのです。
「マミっていうのは、あのちっちゃな蜘蛛のことだね。なぜ、死んだんだい?」
静寂の中、マミとの交流がない紅霧が口火を切るのは自然なことでした。
「私もコロッケ、食べたかった」
マスターが小さな声で文句を言いました。しかし一来には聞こえなかったようで、話を続けました。
「コロッケを手渡そうとしたら、腕をつかまれて引っ張って行かれたんだ。力が強くて、とても振り払えなかった」
その時の事を思い出したのか、うつむいてイヤイヤするように首を振ります。
「路地裏みたいなところに連れて行かれて、黒の鏡を見せられた。黒の鏡の中には、本体の冬矢先輩がいたんだけど、多分、すでに精命が限界近くまで流れ出てしまったらしく、瀕死の状態だったんだ」
「瀕死? 大丈夫だったの?」
「見ただけで、ヤバイってこと、分かるもんなんだね。冬矢先輩、うつろな目で倒れてて。口からよだれが垂れてた。何も感じていないような状態なのに、目からは涙が細く絶え間なくこぼれているんだ。拭きもせずに涙が流れ続けたせいで、目尻のあたりの涙の通り道が赤くただれていた」そこでひと呼吸おいて、静かに続けました。
「それでもう鏡に血を提供しないって言う約束、破ってしまった。その時、稜佳ちゃんから電話が来たんだけど、なんて言っていいのか分からなくて、切っちゃったんだ……ごめん」
「仕方ないよ、見殺しになんて出来ないし」稜佳が首を振りました。
「だからって、自分がこんなになるまで血をあげることないじゃないっ!」
マスターが一来の頬を両手で挟み下を向けないように固定し、顔を近づけて瞳を覗き込みました。一来はマスターを見つめ返したが、その見開いた目に、みるみるうちに涙が盛り上がりました。
「ご、めん……」
突然の涙に驚いたマスターは、反射的に一来の頬から手を引きました。そして転がっていたティッシュボックスを引き寄せると、数枚引き抜いて一来の顔に押し当てました。涙がティッシュに吸い込まれて消えたかわりに、今度は瞳に浮かぶ苦痛があらわになり、そして一来は、喉から声を絞り出すように言いました。
「マミを……、死なせてしまったんだ」
その場の誰もが時間を奪われたように、動きを止めました。もしかしたら心さえも動くことを拒否していたのかもしれません。エアコンが動いている音と、近くの道路を走っていく車の音だけが響きます。
一来の話を嘘だと疑って望みをかけることは無駄だと、その場の誰もがわかっていました。マミが生きていることを誰よりも願ったはずの一来が、マミは死んだと言ったのですから。そして悲しみを口にすれば、一来を責めることになることも知っていました。そして何よりも、自分の胸の中で暴れ回る感情を抑え込むので精一杯だったのです。
「マミっていうのは、あのちっちゃな蜘蛛のことだね。なぜ、死んだんだい?」
静寂の中、マミとの交流がない紅霧が口火を切るのは自然なことでした。