第95話

文字数 799文字

「さっきはさ、あの男の子が靴を飛ばして明日の天気を占ってたんだって。そしたら靴が池に落ちちゃったらしいんだ。橋から乗り出し、靴を拾おうと手を伸ばして落ちそうになってたから、捕まえようとしたんだけど、紅霧が先に捕まえてくれたんだ。僕だけだったら、あの子、池に落ちていたよ」

 隠しきれない称賛の響きがちらりとのぞきます。

「うーん、それなら仕方ないし、紅霧が心を入れ替えたんなら、いいことなんじゃない?」と同調したのは稜佳です。

「人助けしたとき楽しそうだったし、紅霧はもう精命を盗まないんじゃないかな?」

 一来は体を乗り出して、熱弁をふるいました。

「そんなことあるわけないじゃない」

 マスターは腕と足を組んで、ベンチの背もたれにふんぞり返りました。

「でも助けてくれたのは事実だろ?」
『一来。私たち影には人間でいう善悪の観念はないのです。ですから心を入れ替えることもありませんよ』

 私の説明に、稜佳が人さし指を唇に当てて首を傾げました。

「そうかなぁ? だって紅霧は、さっきの男の子が池に落ちそうになったところを助けてくれたんでしょ?」
「そう思うだろ?」

「またなにか企んでいるに決まってるじゃない!」
「決めつけるなよ! 誰でも、そうだよ、影だって、変われるはずだろ。少なくとも紅霧が今日やったことは、何かの企みだと批判するよりも、良い事をしたって認めたっていいだろ!」と、めずらしく一来がマスターに声を荒げます。

「一来のバカ! もういい!」マスターは手に持ったコーラを激しく振ると、一来の手に押し付けました。「キャップ、緩んでいるから」

「えっ?」一来が思わずキャップに触れたとたん、白く泡立つコーラが勢いよく溢れだしました。
「うわあっ!」

 慌てふためいている一来と稜佳を後に残して、マスターは公園を立ち去っていきます。一来は濡れた手を振りながら、マスターの後ろ姿を見つめていました。まだ何か言いたそうな顔で。
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