第155話

文字数 1,119文字

 急いで手を伸ばし、鏡の出口に手をかけましたが、体を引き上げようとした時、ずしりと足が引っ張られました。足場を失った冬矢が私の足に飛びついたのです。体がガクンと下がり、鏡のふちから片手が離れてしまいました。

 ガラガラと足場がくずれ、ブラックホールに吸い込まれていきます。下は乳白色のマーブル模様がうごめいて、今までのみ込んだはずのものは何も見えません。

 「フラーミィ、早く、あがるのよ!」

 マスターが私の手首を握りしめて引っ張ります。私はぶらんとしていた片方の腕を、鏡の縁にかけなおし、懸垂の要領で肘を曲げて片手で体を上に引き上げました。エナンチオマーはその間に私の足をよじ登り、そしてついに首に抱き付いて背中におぶさってきました。

「いけないっ。おどき、アイラ!」

 紅霧がアイラを押しのけようとしましたが間に合いませんでした。
 冬矢がアイラの手を掴んで引きずり落としたのです。冬矢はアイラを引っ張る反動を使って自分の体を上に引き上げ、私の背中を蹴って鏡を抜けるとリアル世界に這い上ります。

 上へ登るエナンチオマーと入れ違うように、マスターが私の横をすり抜け頭から落ちていく。渦巻くブラックホールに吸い込まれていくのがスローモーションのように目に映っています。

「うああああああああああ!」

 鏡から差し込むわずかな光で、右腕のみを影の力で無理やり伸ばすと、影が引きちぎれ、黒い羽虫が飛び散りキラルの扉に吸い込まれていきました。

 ロープのように細く伸ばした腕で、アイラをキャッチすると、鏡に向かって放り投げました。私自身が鏡を抜けた時には、右腕が千々に裂け、痛みが全身を貫きます。立とうとしましたが足がふらつき、テーブルに強く体をぶつけ床に崩れ落ちてしまいました。

背後でキンッと小さな金属音が響きました。黒の鏡がテーブルから落ちたのです。拾おうと手を伸ばした瞬間、痛みが襲いかかり動きが止まりました。その一瞬の隙に、エナンチオマーが素早く鏡を拾い走り去って行きます。

「待ちな!」

 エナンチオマーの背中に紅霧が叫びます。腕を鞭のように伸ばし、エナンチオマーを狙います。しかしエナンチオマーは紅霧の鞭をすり抜け、暖炉の上に掛けられた鏡に飛び込みました。マスターも逃げていくエナンチオマーになすすべもありません。光るブルーアイを人差し指と中指で指差し、その指をエナンチオマーにまっすぐ差し向けました。

「逃がさない……っ!」

振り返り残忍な笑みを浮かべるエナンチオマーを、紅霧の鞭が追いかけ、鏡を割りました。しかしエナンチオマーの姿はすでに鏡の奥深く消え去り、後には粉々に砕け散った鏡の破片が、パズルのピースのようにバラバラな景色を映すのみだったのです。
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