第166話

文字数 1,284文字

「ちょっと紅霧、どうしてここにいるのよ」

奏多の部屋を出て授業を終えたマスターと合流して帰宅すると、姿を消していた紅霧がマスターの部屋でアイスを食べてくつろいでいました。畳の上にゆるく胡坐をかいていた紅霧は、戸口に立ったままのマスターを、首だけねじって見あげました。マスターは緑色のリュックを下ろすことも忘れています。

「おかえり、アイラ。おや、ジャージが肩からずり落ちているじゃないか。だらしがないよ」

紅霧は軽い身のこなしで立ち上がると、手に持っていた小豆味のアイスをひょいと口に咥え、空いた手でマスターの服を直しました。影の私の服も同時にずり上がるのを感じて、すばやく人型になりました。紅霧に服を直されるなど、とても耐えられるものではありませんから。

「おや、フラーミィじゃないか。大人しく影でいたっていいんだよ。白の鏡は私が見張っておいてやるから」

『あなたの目的は白の鏡なのですか?』

「そうさ。キラルの世界に行くとき、約束しただろう? リアル世界に戻ってきたら、黒の鏡は私に返す、ってね」

「だけどないもんは仕方ないじゃない」

マスターが口を尖らせました。ウィスハート家には約束を守るという家訓その二に反します。約束をもちだされると強く出られないのです。

「ここにあるのは、黒じゃなくて白の鏡なんだから、約束とは関係ないでしょ?」

「そうとも限らないさ。アイラも知っているだろう? 人と影が入れ替わるには、白と黒の鏡を合わせ鏡にしなけりゃならないんだ。つまりエナンチオマーは必ずここへやってくる。白の鏡を取りに、ね。そこをとっ捕まえて、黒の鏡を取り返すっていう寸法さ」

 いい考えだろ? とでも言いたげに、紅霧は機嫌よく説明します。

『しかし紅霧、あなたも入れ替わりを目論んでいるのでしょう? 入れ替わるのが冬矢なのかあなたなのかの違いでしかないのに、手を組むメリットはありません』

「まあまあ、よく考えてごらんよ。エナンチオマーがヒューマンと入れ替わるには、桐子は邪魔なんだ。だから白の鏡を手に入れれば、桐子を即刻、追い出すのは間違いない。そうだろう?」

「まあね」

 マスターが渋々、といった様子で肩をすくめるようにしてうなずきました。

「鏡から出されたら桐子はあっという間に精命を失って死ぬ。それはアタシにとってもまずいんだ。だけど私が黒の鏡を手に入れたとしても、白の鏡はアイラが持っているなら今までと変わらないじゃないか。黒の鏡をエナンチオマーから取り戻したら、私は一旦、退散するよ」

『黒の鏡を取り戻すまでの休戦、ということですね』

「そういうこと。キラルの世界に行く前に交わした約束がまだ続いてると思えばいいだろ?」

「そうね、一度にエナンチオマーとお姉……」マスターはお姉さん、と言いかけたのを、ごほんと咳ばらいをして誤魔化し、「紅霧を相手にするのは厳しいわ。休戦を続けた方がよさそうね。だけど約束は守ってよね」と言い直しました。

共にキラルの世界で危機を乗り越えたせいで、マスターは紅霧に心を許し始めているようです。紅霧の方も同じだといいのですが、紅霧の真意はまったく読めません。
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