第184話

文字数 1,050文字

「その時あいつがキズトンって言ったんだ。そしたら次の日から皆にキズトンと呼ばれるようになった。広がるのはあっという間。ほとんどの人にはボクをキズトンと呼ぶ理由はなにもなかったと思うけど、みんながキズトンって言うからみんな言う。……仇名が広まっていって、いつの間にか、いじめられているみたいな状況になってたんだ」

「あんたは悪くないよ」
「そう。ボクは悪くない、ってボクだって思う。だけど嵐が吹き荒れた」

「だから私がやっつけてやるって言ったのに」紅霧が言うと、奏多は笑い出した。
「紅霧さんはずーっとそう言っていたものね」

「そうさ。桐子だって助けてやれって言うはずさ」

「だけどボクは、ただ……ゼロになればいいんだ。キズトンと呼ばれず、いやがらせも受けず、それだけでいい。あいつらに怪我させるとか、そういうマイナスは要らない。

まあ、ちょっとくらいは困ればいいのに、って思うけど。それから表面上ただあだ名で呼ばれなかったとしても、ボクがいないところで呼ばれたらそれもゼロじゃない。だけどね……」

奏多はふうと、箸でつまんだ豆腐に息を吹きかけ、湯気の向こう側に隠れる。

「そんなこと、出来ないんだよ。他人の心を変えるなんてことはさ。鏡に入っているとき、考えてみたけど、望みが叶わないなら報復すればスッキリするかって言えば、そうでもない気がしたんだ。かといって戻る気にもなれない。

 だからどこかへ逃げ出したくなって、キラルの扉を開けた。だけどね、助けに来てくれた皆には迷惑かけちゃったのに悪いけど、帰って来た今も、本当のこと言うと、どう関わればいいのかなんて、答えが出ていないんだ。……それでもね、冬矢先輩には報復なんてして汚れて欲しくない。それは確か」

紅霧が手を伸ばし、奏多の髪を撫でた。

「いい子だね……。あんたがここにいる。それが一番、大事なことさ。今もキズトン、って言われているのかい?」

「それが、なんだかおかしいんだよね? 鏡を出てから、なんだか皆が怯えているっていうか。どうしたんだって聞いたら、『お前、怖い知り合いがいるんだな』とか言われて」奏多は首を傾げて思い当たる節はないんだけど、と付け足す。

「なぜかわからないんだけど、とにかく、キラルの世界から戻ってきてからは、誰にもキズトンなんて言われてないよ。呼び方が変わったら、嫌がらせも潮が引くみたいになくなったんだ」

「そう! よかったじゃない、奏多。さあ、たくさん食べるのよ」

”怖い知り合い”その人であろうマスターは、にっこり笑って奏多に鍋をすすめました。
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