第79話

文字数 1,620文字

 浅葱先生が自分で戦う覚悟が出来たのかどうかはわかりません。しかし、聞いてみる価値はありそうですね。
 紅霧は鏡を持った手をぶらりと体の横にたらしています。私は影の手を伸ばし、浅葱先生の本体を引きずり出そうと手をつっこみました。その瞬間、紅霧がすばやく私の手首を掴みました。

『浅葱先生はもう用済みなのでは?』
「離してあげてもいいよ。だけど一つ教えておくれよ」紅霧はステージの方を顎でしゃくりました。「ポスターに付いていた血。あれはあの子のなんだろう?」

 あの子、というのが一来を指していることはお互いにはっきりわかっていました。紅霧と目の中を探り合います。私が返答するまでの0.5秒の間を器用につかまえて、紅霧は笑い出しました。喉を震わせて、くぐもった笑い声を漏らします。

「ふうん……。わかったよ」

 抑えつけられていた手首を紅霧がぐいっと引っ張りました。次の瞬間には浅葱先生の本体が鏡から引っ張り出されていました。ドサッと音を立てて、浅葱先生が床に転がり落ちました。
 紅霧は笑い声だけを残し、鏡と共に消えていきました。私は紅霧の手の感触が残る手首を振りながら、音響設備の方を仰ぎ見ました。

――同じ場所に浅葱先生の本体と影の両方がいてはまずい……――

 しかし浅葱先生の影はすでにそこにいませんでした。本体が鏡から出たことに気が付いて、移動したのでしょう。しかし本体が鏡から出たということは、精命の供給は途切れたということです。影はすぐに力を失ってしまうでしょう。

 すばやく左右に視線を走らせると、いつの間にか影は床に倒れている本体の傍に膝をついていました。倒れている浅葱先生に上から覆い被さるようにして、上からのぞきこんでいます。

 「本当に、いいのか……?」と頬をさすりながら、優しく問いかけています。

 浅葱先生がゆっくりと瞼を持ち上げ、影と目を合わせました。影は浅葱先生の瞳の奥を見つめました。そして揺れるロウソクのようにまだ弱々しい火が、それでも灯っているのを認めると、迷いなく自分の胸に手をつっこみ、何かを掴みだしました。そして浅葱先生の手に握らせると、初めから誰もそこにいなかったように消え去りました。浅葱先生は胸の上に握ったこぶしを乗せ、ぎゅっと握りしめました。

『それは何ですか?』
「これ……? ああ……。ははっ。こんなものを後生大事にしているなんて、笑われてしまうな」

 そう言いながら、浅葱先生は起き上がり固く握った手をゆっくりと開いてみせました。手のひらの上に乗っていたのは、なんの変哲もない、ただの消しゴムです。青いボーダーの柄のカバーがかかっている、定番の消しゴム。しかも消しゴムの端っこが黒く汚れていて、使いかけであることがわかります。

「これね……、昔、流行ったんだよ」

 浅葱先生は目立たないように、静かに立ち上がりました。そして消しゴムのカバーを引き抜き、私に見せました。
「もらったんだ。初めて担任を持ったクラスの卒業生に。あの子達全員の名前とね、僕の名前が書いてあって。二十年後に会いに行くから、きっと忘れないで、って書いてある。消しゴムに書いたんだから、ちっちゃい字でね。それに日付と曜日もね、調べて書いてあるんだよ」浅葱先生は目をこすった。

 「願い事を書いてある消しゴムを使い切ったら、その願いが叶うっていうおまじないだ。私に使わせようとしたんだね。おまじないの事は何も知らされなかったから、最初気が付かなくて、使っていたんだ。それで消しゴムが小さくなってきたから、カバーをずらそうとして、文字に気が付いた。それからね、使えなくて。ずっと大切に持っているんだ。」

『この日付の日に、その子達に会ったら消しゴムを見せようと思ったんですか?』

「いや、あの子たちに胸を張って会える教師になれたら使おう、会う日までに、生徒と誠実に向き合う教師になろう、そう思ってね」なれなかったけど、と浅葱先生はカサついた声で付け加えました。
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