第178話

文字数 763文字

「……たかが虫一匹、というつもりはないけどね。エナンチオマーと影に狙われて、一来が無事だったんだ。それだけでも儲けものさ。マミは一来を守ったんだ。よくやったと褒めておやりよ」

「そう……だよね、一来君を守ったんだよね、マミちゃんは」

 稜佳は自分を納得させるように何度も頭を縦に振って、紅霧の言葉を飲み込もうとしましたが、唇を震わせながら涙をぬぐう手はいつまでも止まりませんでした。マスターは稜佳に歩み寄り、黙って抱きしめました。こらえきれない涙がマスターの大きな瞳を満たし、あふれて流れ落ちます。音もなく、ただ涙だけがマスターの頬をつたい、こぼれ落ちていきます。

「アイラちゃん……」
「エナンチオマーを倒そう。ね、稜佳。誓おう。私達は負けない。冬矢を取り戻しおばあちゃんを守る」

 稜佳の肩はまだ震えていましたが、それでもしっかりとうなずきました。一来も手が白くなるほど力をいれて布団を握りしめ顔をあげました。紅霧はしばらく三人の様子を見ていたが、目を数回しばたくと、パンッと手のひらを合わせました。

「さあっ。現状を検討しようじゃないか。あの小っちゃなクモの弔い合戦をするんだろう?」
紅霧の言う通りです。哀しんでいる人間に鞭を入れて走らせるような真似はしたくはありませんが、哀しみに浸っている時間はないのです。

 声を発しようとしたとき、ふいに「あの小っちゃいクモ……」という紅霧の言葉が耳に蘇り、マミ、と声に出さずに、その名を呼んでいました。くるくると色を変える丸い目が、もう見返して来ることはないのだと思うと、キシリ、と胸がきしみました。

 私はゆっくりと目を閉じ、胸のきしみを封印しました。私は影だ。影が悲しみにとらわれてどうするのか。そして再び目を開けた時には、やるべき事をなす準備が調っていました。エナンチオマーを倒すのです。
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