第126話

文字数 1,030文字

「キラルの世界はこっちの世界をそのまま映している訳じゃないってことだ」

「そういうこと。もしかしたら遺伝子が描く螺旋すら、逆巻きかもしれないよ」

人差し指をくるくると回しながら、茶化すような口調で紅霧が言いました。

『つまり、同じに見えたとしても、キラルの住人はエナンチオマーと呼ばれる鏡像異性体なのです。ヒューマンではない。そしてキラルの扉が閉められてしまったら、鏡の時間は再び止まり、こちらの世界の時間は進みます。時間に置き去りにされたキラルの世界は……、ブラックホールに飲みこまれる、と言われています』

「エナンチオマー……」稜佳が確かめるように舌の上で単語を転がします。

「扉はいつ閉まるんだ?」

尋ねる一来の声が震えています。希望を持たせてさしあげたいのは山々ですが、嘘は破滅を招くものです。

『時が訪れた時、と言われています』

テーブルを囲む全ての目が見つめる中、鏡の中の扉が時を刻むようにわずかに閉じました。

「ね、ねえ! 時が訪れた時、って、要するにいつ閉まるのかわからないってことでしょ? なら、早く助けに行かなきゃ!」稜佳の声が沈黙をやぶります。

「私は反対。説明聞いてた? 扉はいつ閉まるのかわからない。もし戻ってくる前に扉が閉まったらブラックホール行きなのよ」
「でも放ってはおけないよ……」

 稜佳は気弱に声のトーンを落としながらも粘ります。奏多の影が頭を下げました。

「助けて……ください」

 聞き取りにくい小さな声ですが、すがるような響きでした。そして頭を垂れたまま審判を待っています。

「僕は行くよ。奏多が鏡に入ったのは、僕の責任でもあるし」と一来が言いました。
「ばっかじゃないの?」なじるマスターの口癖にはいつものキレがないようです。

『危険すぎます。キラルの住人はエナンチオマーです。ヒューマンとは全く別の生き物なのです。予測がつきません。特に稜佳、あなたは奏多さんとなんの関わりもないでしょう』

「関わりなら、あるよ! さっき中学校で奏多の味方をした。手を出したんだから、最後までやるよ」口調に決意がにじみます。

「はあっ。稜佳、あなた鏡の世界から戻って来られなくて、Black Crowが逆再生でしか聴けなくなってもいいの?」

  マスターの質問は、「一緒に行く」ということと、同義のようです。

「逆再生なんか嫌だよ! だからちゃんと戻ってくる」

 稜佳が真顔で答えます。やはり真顔のマスターと見つめ合い……笑い出しました。紅霧が紅茶を飲み干すと立ち上がります。
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