第211話

文字数 982文字

「そうだ。稜佳、あなたもおしおき対象だったわよね? 一来を探してきてよ」

『見つけました。あそこです。男子トイレの前』

 影の姿のまま、マスターの耳元に這いのぼり、耳打ちしました。
 一来はトイレの前にしゃがみこみ、目のまえに立っている小学生の男の子の靴ひもを結んでやっています。

「ちょっと、フラーミィ。アレは一体何をやっているのよ。私達を待たせて」
「靴ひもを結んで、ズボンを直してあげたところのようですね」

「そんなことは見ればわかるわよ。もう、仕方ないわね……。フラーミィ、ちょっとチケット売り場に行って、並んできて?」

『お断りします』
「いいじゃない。お願い! 精命を奮発しちゃうよ!」

――精命を奮発……

 甘い響きに心が揺れます。仕方ありませんね、と言おうとすると、「おーい」と一来が呼びました。

「この子、迷子なんだ!」

周囲を見回すと、遊園地の入場チケットを求める人やいち早く観覧車やジェットコースターに乗ろうと入場ゲートに急ぐ人々でごった返しています。男の子の親を見つけるのは難しいでしょう。

「フラーミィ、助け……」
「ちょーっと待ったあ! 私は他人のために魔法を……」

「使わないんだろ? ハイハイっと」一来がマスターの言葉をさえぎりました。

泣きべそをかきはじめた少年の涙を、奏多が青いハンカチでぬぐってやっています。鏡の中から戻ってきた冬矢が、奏多にあらためてプレゼントしてくれたハンカチです。

一来に非難がましい視線を向けられて、マスターが唇をとがらせそっぽを向いたところへ、「おーい! お待たせ」と最後の一人が小走りにやってきました。

「冬矢先輩っ! お母さん、大丈夫だったんですか?」奏多が冬矢に駆け寄りました。

「うん、もう受験も終わったしね。それにあれから、そんなにうるさく言わなくなったんだ」

陽射しをさえぎるためにひさしをつくるようにあげた冬矢の手の甲には、まだ骨がうすく浮き出ていますが、体全体に少し肉がついたようです。ベージュのチノクロスのパンツとネイビーの薄いセーターの中で、しっかりと体の存在感が感じられるようになっています。

カジュアルながらも上品なスタイルには、似合わないミサンガが、手首からちらりと顔をのぞかせています。後夜祭の前に、冬矢が奏多に青いハンカチを貸した代わりに、奏多が渡した受験のお守りです。冬矢はミサンガを依り代にしていたのでした。
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